テーマに無関係な話をしているつもりはないのですが、このままだと何時終わるのかと潮の流れも読み難いので(苦笑)、舵を握って寄港先を見据えます。


時折、似顔絵を描いて欲しいという不躾な依頼があるのですが、大抵は「写真のようなリアルな仕上がりが希望...」という一方的な類いなので、やんわりとお断りしています。
そういうものは、似顔絵の専門屋さんの暖簾をくぐって対価を支払えば、どんな要求にも職人気質を発揮して応えてもらえるでしょう。

はじめにも話題にしたことですが、誰の目(視点)にも同じ調子で、人物や物事を写実的に仕上げたいのであれぱ、写真撮影で事足りるわけです。
いまの時代は高機能の写真編集ソフトも手頃に揃い踏みしているので、油絵に水彩にパステル調と、撮した写真にエフェクト(加工)を施して、素人にもそれなりの趣を表現することは容易ですよね。

自分は似顔絵屋さんでもないし、対象を写真さながらに画用紙に描き上げて拍手喝采を浴びる、スーパー・リアリズムのような “曲芸(見世物)”を披露することには興味がありません。

学生時代には、自分の観察眼や素描力の精度を高めたり、その限界や要領を見極めるために、リアリズムの訓練に没頭してみた一頃もありましたが、ただ精緻や正確性を極めることの技巧のみに意識が囚われてしまうと、いずれ必ず “極(窮)まって”しまうものなのです。

尖った針の先端に向かって視線を流して行くと、鋭い輝きを放ってはいるものの、その先端から先には途切れた無の空白が広がっているだけで、進行の流れ(動き)も止まりますよね。
極めた果てに見える世界は、窮まって身動き一つとして出来ない、停止した世界であり、再び動きや流れを取り戻すためには、また別の先端(世界や物事)を探すなり見つけるなりして、極め続けるしかない。

技巧に限らず、物事を極めて達人の域をモノにした結果が、高潔で素晴らしいことに疑いの余地はありません。
但し、その鋭い先端は自惚れと紙一重であり、やり遂げた結果に安住して、同じこと(楽なこと)を繰り返している人の有り様には、疑いの目線が向いてしまいます。

それではまるで技巧の奴隷(ロボット)ではありませんか?



♪「Á Zingara(Prog Family)」:
Osanna & David Jackson
http://youtu.be/BKizug1TqQs

♪「Á Zingara(1978)」
http://youtu.be/Y-SfKI1RIJM



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