⏩運命を嘲笑う者が幸運を手に入れるだろう。

…ベンジャミン・ディズレーリ(19世紀のイギリスの政治家、小説家)


自分は運命論者ではありませんが、生きていれば、俗にいう運・不運の巡り合わせは避けられない。
良い巡り合わせ、悪い巡り合わせは絶えず人々の身近に散らばっていて、※禍福は糾える縄の如し、幸せも不幸せも同じものなのかも知れませんね。

ある人にとっての不幸が、別の人には幸せであったり。もちろん、これは他人の不幸を眺めて笑うという意味ではありません。
自分には不幸にしか受け止められない出来事でも、そこに幸せを感じ取れる人もいる。
単純に言えば、バナナが苦手な人もいれば、大好物の人もいるでしょう。好き嫌い、幸・不幸の感受性も、粒さに分ければ人それぞれ千差万別。

要は、あくまでも能動的(積極的)に、自分に巡って来る出来事にどう対処し、何を見出だすか。
自らの不遇に嘆き、不満を口走ってばかりいる人は、そこに気が付かないので、自分の問題(コンプレックス)を誰かに平気で丸投げしたり、安易に頼って解消しようとするのです。
自分の責任さえ自覚すれば、考え方次第では、いくらでも自分に最適な筋道が見つかる可能性は高くなるし、根気も備わって実力も進化を遂げるはずです。


呉々も、いま在る自分の姿というものは、決して偶然の産物ではないし、誰かの仕業で成り立っているわけでもない。
その場その時の自分の選択の積み重ねに因って、目の前の結果に表れているのです。

もしも、自分の現状に憂い、つい不平不満をこぼしてしまう人と関わり合うような機会があれば、はじめのうちは無難に相槌を打って聞き流します。
でも、それがいつまでも繰り返し続くようであれば…▶️「えーかげんにしなはれや」と、例のご老人を辛辣に諌(いさ)めるアプローチよりも、本来ならば、ただその人の責任感の所在や、自覚の有無についてを、穏やかに問いたい。
これきりの挨拶代わりに、あなたが不平不満を誰かに転嫁する前に、まずご自身がこれまでの人生の数々の局面で、どういう選択をし、どれだけの努力をして来たか、振り返るなりして下さい…と告げたいですね。

もちろん、お別れなので、それについては別にリアクションを求めるわけもありません。(笑)
自分自身が考えて向き合う、他人の人生の問題ですから。
努力にしろ選択にしろ責任にしろ、その水準や概念は人それぞれだし。


以上、いつものことながら、つくづく自分も底意地が悪い。
こういう場では一方的な展開になるので、アンフェアな印象もその通りですが、実際、例のご老人を諌めてしまった当日のやり取りの内容(ドキュメント)に、殆ど変わりはないので、陰口悪口を叩いているという意図はありません。
偶々ご覧になり、不愉快を与えてしまった方には悪しからずです。


^※
【ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield, :1804年~1881年)】
▼Wikipedia

^※
故事より「禍福は糾える縄の如し(かふくはあざなえるなわのごとし」…幸福と不幸は表裏一体で、より合わせた縄のように交互にやって来るので、一時のそれに一喜一憂しても仕方がないということ。
▼【故事ことわざ辞典】



♪「Concerto in D Minor(After Alessandro Marcello),BWV 974: II. Adagio」:Alexandra Stréliski





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