昨今、身近になったデジタルツールには重宝しても、依然として絵を描くという工程は、アナログな手作業が中枢にあり、肉体のコントロール如何が仕上がりの行方を左右します。
デジタルツールは、その負担の軽減に多少の効果も発揮するのですが、それに意識が傾き、依存する気持ちが過ぎてしまうと、マシンの奴隷に堕ちて、活きた感受性も鈍ってしまうように思えるのです。

ともかく、絵を描き遂げるには生身の根気が問われ、その人となりが露になります。
誰かの助力が踏み入る余地もなく、彼かの目線も及ぶ隙間のない孤独の世界において、人はありのままの姿で振る舞うのが自然なことですよね。

抽象的ですが、“真っ白になる” という感覚が想像出来るでしょうか。
物事に集中している状況下では、おそらくその動機が俗な欲望であったとしても、人は自ずと無欲の境地のなかに包まれています。
意識が研ぎ澄まされて行く過程で、余計な邪念や偏見、日頃とらわれがちな世の常識、そして誤解を危惧せず言えば、倫理観さえも必要性を持たなくなるのです。

 
虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、虚構と現実の微妙な皮膜の間(はざま)をさまよえる...と、近松門左衛門(中世日本の劇作家)の芸術論で語られています。

無欲の境地では、自分に嘘をついたり、正直さを出すといった平明な二元論でさえも、その意味を果たさない。
それこそが、虚と実に付かず離れず挟まれた、静謐な間合いに身を置く一時だと思うのです。


自分の素顔が現れるというよりは、そういう個人性を超えた、人としてのありのままの生きざまが、善も悪もなく表れてしまう。
それを思えば怖くもありますが(笑)、自分のなかの混じり気が取り除かれて行く様は、清々しいものです。

刀鍛冶が、鋼の不純物を消し去るべく折り返し鍛錬し、一点の曇りのない刃先を極めるべく磨き上げて行く姿等、およそ古今東西、自己に向き合うことを日常の生業にしている職人気質の世界を鑑みても、想像は掴めることでしょう。
そこから出で仕上がった作品もまた、純度の高い時間を映し取った形(成果)であり、その人が過ごした瞬間の分身なのです。


自分は何故?絵を描くのか...という自問自答は、決して複雑で難解なものではありません。
心のなかの空気が澄みきって行く一時が、絵を描く筆づかいから伝わり、そこに身を置けば、静かなる一点にありのままの自分の姿が見出だせることに尽きます。
そして仕上がった果てに、浄化して行く自分の感性を見送る瞬間の安らぎを、体験し続けたいからなんですよね。

 
♪「I Should Have Known All Along」:Awful Truth
http://youtu.be/hEP10H9dbSk

 

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