12月13日 夕方
あもん達は夜が更けるまで少し時間があったので、仏壇屋さんに行くことにした
話し合った結果、やはり浄土宗の数珠で式に参加しないといけないねということとなり
ついでに、あもん家にはない仏壇を見に行くことにした
そう、あもん家には仏壇がない
何事も初めて物語のあもん達は次なる決め事に挑まなければならなかったのだ
広島市の繁華街にぶつだん通りと言う通りがある
繁華街とは飲み屋街で、この界隈には高級バーやラウンジのビルが並ぶ
あもん達庶民は、誰かに誘われないと飲みに行けない界隈である
なぜか、この通りをぶつだん通りと言い、その名の通り飲み屋ビルの前に仏壇屋さんが数件並んでいるという不思議な光景が見られるのだ
あもん達はその中で、広島人なら誰もが聞いたことある名前の仏壇屋に行った
『あの~数珠を探しているのですが、、』
『いらっしゃいませ、宗派は何でございましょうか?』
さすが、プロ中のプロだ、まずは宗派を聞くことから始まっている
『浄土宗です』
『さようでございますか。浄土宗の数珠はこちらです』
『えっつ、少な!』並べられていた多くの数珠の中には数種類しかなかった
『えっつ、他の宗派も数珠が微妙に違うやん!』
そこには曹洞宗、日蓮宗、臨済宗などの数珠もあったが、それぞれが違っていた
『100均で売っているヤツって、浄土真宗の数珠だったんじゃね!』
『はい。浄土真宗様は広島県に1000程の寺院がありますが、浄土宗様は100程ぐらいしかございません』
『ちなみに、数珠の掛け方はこうでございます』
さすが、プロ中のプロだ、あもん達が恥をかかない様に自然と教えてくれる
あもんが今まで掛けてきた数珠は浄土真宗であり、掛け方も浄土宗とは違っていた
浄土宗では両手を合わせた状態で親指に数珠をかけ、数珠は手首の方に流す感じだ
数珠の種類が少なかったのであまり選べなかったが、あもん家は浄土宗の数珠を購入した
『ついでに、仏壇の方も見たいのですが、、』と店の方に尋ねると仏壇プロの方が現れた
『失礼ですが、仏間はありますでしょうか?』仏プロは宗派を聞いた後に尋ねてきた
『いえ、ありません』と答えると
『仏壇を置く予定の部屋はどんな感じでしょうか?』と部屋の間取りやスペースの寸法を聞きつつ、あもん達を2階の展示スペースへと行くEVに案内した
2階の展示室には全フロアを使った仏壇が多く展示されていた
あもんが金箔で装飾された仏壇を『すげーな』と見ていると
『はい。そちらは浄土真宗様の仏壇となります。浄土宗様はこちらの地味な方で、、』
『えっつ!そうなの!違うの!?』
『はい。それと最近では仏間が無いお宅がほとんどなので、この様なスタイリッシュな仏壇も多くあります。こちらですと、スペースも小さく済みますし』
見るとそれは、仏壇の様で飾り棚のような、数段の棚がある家具のような仏壇であった
『これ、普通の家具やん!』と思ったけれど、マンションで和室がオプションとなる昨今で、仏壇の事を考えてマンション購入をするユーザーは少ないであろう
なるほど、スタイリッシュな部屋に融合する仏壇もあってもおかしくは無いと思った
あもん家はあもんの要望でリビングは琉球畳とフローリングにした
どちらの仏壇もおかしくは無いが、あもんはやはり、仏壇っぽい仏壇が良いと思った
『そういえば、おばあちゃん家に木魚があったよね~』と姉ちゃんと話していると
『そうですね。木魚も浄土宗独特で、浄土真宗には必要ない物なのです』
『えっつ!そうなの!』
確かに思い出してみると、木魚は父方の実家にはあるが、母方の実家には無い
格好の子供たちの遊び道具となる逸品でもある
『木魚はお寺様がお念仏を唱える時の楽器のようなものですから、お宅に招くことがなければ、絶対必要な物ではありませんよ』
あもん達はアイカとコータの遊び道具となる恐れがあるので木魚はスルーすることにした
あもん達は仏壇選びが初めてだったので、仏プロに細かく質問をした
仏具も基本的には同じだけれど宗派によってちょっとずつ違うみたいで
仏プロは『浄土宗ではこちらですね~』と細かく教えてくれた
そしてさらに『現在、歳末大売り出しの時期でして、お安くなっている商品がたくさんあります。こちらはどうでしょう』と紹介された物も見て回った
歳末大売り出しという所がクスッとしたが、やはりどの世界も商売であると認識をした
結局、母が気に入った“歳末大売り出し商品”の前に立っている時間が長くなり
あもん達は小さいながらもしっかりと仏壇となっているモノに目をつけて帰った
『歳末セールが27日までじゃけぇ、それまでにまた来ようや』
『ほいじゃけど、父さん、歳末セールの事知っとんたんかね?』と
母がクスッとしながら言っていた
バタバタしながらも、ひとつずつクリアしていくあもん達は
『まだ、父さんが旅立って一日しか経っていないんじゃね』と言い合い
いつもは記憶なく過ごしていた一日というものを
色濃く長い一日として過ごしているということに気が付いた