あもん家の長い5日間 ⑨ | あもん ザ・ワールド

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君へと届け 元気玉

1212日 昼

あもん母の2人の兄と1人の姉が遠く山口からやって来た

長男で本家に居る母兄とは、毎年盆と正月には会うのであるが、今年の盆は父を連れていくことができなかった

闘病の詳細をわざわざ伝えることも無いという母の判断で、詳しいことは知らなかったので

あもん母の兄姉は驚きの表情を隠せずにいた

『なんで?早すぎるじゃろ!』と声をかけても返事は無い

『でも、あれじゃね~ほんとに亡くなっとるん?寝とるだけなんじゃない?』と誰もが言った

父の最後はとても安らかで、苦しむこと無く眠った

アイカの声を待つ間も、苦しむことなく眠っているように微かに息をしていたのだ

最後にほんの小さく息を吐いて眠った父の顔はとても安らかだった

加えて、前日までは体調がよく、決して病人の顔では無かったのだ

今思えば、一番病人っぽい顔をしていたのは、抗がん剤治療をしていた頃だと思う

この緩和ケア病院に来てからは、“もしかして治ったんじゃない?”と思うほど健康的な顔であった

しかし、病はゆっくりだが、確実に進行はしていたのであった

アイカが必死に冷たくなった体を暖め続けていた理由が分かった気がする

父は今にも起きてきそうな健康的な顔をしているからだ

 

人の命って、いったい何モノなのだろうか?

 

どんなに人間の知能が進化していっても、命の存在を解読できる人間はいないと思う

全ては命が動いていることや命が無くなってしまうことを前提に人間が行動しているのであって

医学や心理学、生物学などは“命の繋ぎ方”を追求しており、“命の存在そのもの”を追求するまでには至ってはいない

その問題に人間は、神や仏を当てはめ納得はしているが、命の存在は感じるモノであり、目に見えるモノではない

目には見えないから良いのだろうか

感じるモノだからこそ尊いモノなのだろうか

 

あもんもよく、命の存在を考え文章や詩を書いてきてはいたが

それは所詮、他人の出来事で感じたことの表現であった

全ては無責任な想像であり、それは決して真実ではない

そんなことを分かりつつも、やはり命の尊さは学び伝えないといけないと思い表現を続けていた

今回の場合は、その対象が父であったので、リアルに学べると思っているが

あれこれと考え続けていても、やはり、命とは何かという答えにはたどり着けない

もしかして、自分の命が絶える時にしか分からないモノか?と

また、無責任な導き方しか思いつかないのが現状である

 

とりあえず、あもん父は霊柩車に乗り、平穏祭典の安置室に移されることになった

平穏祭典の方は急な連絡にも関わらず、迅速な対応をしてくれてありがたかったが

よく考えてみれば、職業柄そういうものなのであろう

あもんは車で来ていたので、霊柩車には母と姉ちゃんと何故かアイカが乗ることになった

アイカはもう立派な親族の一員となっていたのであった

 

あもんは母兄姉を車で連れていき、民ちゃんも最新のナビを自慢していたが、結局あもんの車に着いてきた

霊柩車はあもん達より少し遅れて来て着いたので、あもん達は安置室に通された

安置室は普通の旅館の一室であって、奥に布団が引かれその前に枕飾りがあった

安置室で少し待っていると父の入った棺桶が到着し、父は布団の中に入れられた

『ドライアイスを入れるのをお許しください』と葬社の方

父が落ち着いたら、それぞれがお線香を上げ、ひとまず落ち着いた

 

『で、これから、どうすればいいの??』

 

『はい。担当の者が2時に参りますので、しばらくお待ちください』

『これからの段取りを説明させていただき、お見積りの相談をさせていただきます』

 

 

『えっつ、今からお見積りって??』

 

あもん家の長い一日はまだまだ続く