福山が燃えた日 | あもん ザ・ワールド

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君へと届け 元気玉


2016年6月19日記

広島県福山市に福山市人権平和資料館がある



広島県福山市
広島県東端に位置する中核都市で
県内では広島市に次ぎ2番目となる約46万人の人口いる市だ
隣接する岡山県井笠地方を含む備後都市圏の中心都市でもある
太平洋戦争の激化とともに福山市も軍事施設の拡大と工業軍需化が進み
小規模ながら 軍事都市化として発展を遂げていた

昭和20年8月8日22時25分
10機の先導機を含む合計91機のB29が襲来し
1時間10分にわたり556トンの焼夷弾を投下
その結果、福山市街は焦土となってしまった















当時の福山市の人口が58,745人、世帯数が13,671戸
内、犠牲者が354名、重軽傷者864名、焼失家屋10,179戸、
被災人口が47,326人と実に市民の81%が被災した
国宝福山城天守閣も、福山の悲しみを象徴するかのように崩れ落ちた
















アメリカ軍が福山を空襲する理由はしっかりとあった
陸軍歩兵第41聯隊, 福山海軍航空隊の日本軍があり
川西航空機の部品組立工場、帝国染料工場と多くの小規模な軍需工場がある
そして、1~1.5平方マイルの住宅密集地域がある


















戦時体制下で生活が統制される中、市民は空襲に備えていった










諸物資が戦争に集中された結果、生活必需品の全てが統制下におかれ
「自由販売」は厳しく禁止され、配給制・切符制が実施されていいた
特に食糧に対する統制は市民を苦しめ
節米と称して二食主義・代用食・玄米食・大豆食そして共同炊事が奨励された













「1戸1品献納運動」などのスローガンのもとに金属や鉄・銅製品を中心に廃品回収が盛んに行われ
学校の二宮金次郎像は陶製に変わり、寺院の釣鐘も供出されたという






昭和19年に入って本土空襲が日常化するとともに
大都市の国民学校3年生以上の児童は強制的に地方へ疎開され始め
広島県東部4郡(沼隈・深安・芦品・御調)では
大阪市福島区の児童 4,250人を引き受けることになり
児童は終戦に伴い帰郷するまで、地元民とともに生活をした
児童は疎開へ少年は兵士へと誰も疑うことなく福山は動いていった
















女子勤労挺身隊
それは女子たちも兵士へと変える政策でもあった








福山海軍航空隊は詫間海軍航空隊福山分遣隊を廃止し
施設を拡充して新たに昭和20年3月に開設された航空隊だ







水上飛行練習機、偵察機、戦闘機などが置かれ、練習、出撃基地となった
また、ここからも特攻隊員9人が沖縄に向けて出撃しいる
現在、JFEスチール西日本製鉄所福山地区の敷地の一部となっているみたいだ






もちろん、福山海軍航空隊へのアメリカ海軍艦載機による攻撃はあった
福山大空襲以前にも頻繁に行われていたと言う

実は昭和20年7月31日夜に
B29が一機飛来し、空襲予告ビラ約6万枚を散布
福山に投下されたビラが残っている






このビラは伝単(でんたん)と言い、昭和20年(1945年)7月27日から
8月4日の間に3種類のビラが日本の32都市に約198万枚がまかれ
16の都市が空襲に襲われた
ビラの裏面には警告文が記載されていた




日本國民に告ぐ

あなたは自分や親兄弟友達の命を助けようとは思いませんか。
助けたければこのビラをよく読んでください
数日の内に裏面の都市の内、全部もしくは若干の都市にある
軍事施設を米空軍は爆撃します
この都市には軍事施設や軍需品を製造する工場があります
軍部がこの勝目のない戦争を長引かせる為に使う兵器を米空軍は
全部破壊しますけれども、爆弾には眼がありませんから、どこに落ちるか分かりません
御承知のように、人道主義のアメリカは罪のない人達を傷つけたくありません
ですから、裏面に書いてある都市から避難してください


アメリカの敵はあなた方ではありません
あなた方を戦争に引っ張り込んでいる軍部こそ敵です
アメリカの考えている平和というのは、
ただ軍部の圧迫からあなた方を開放する事です
そうすれば、もっとよい新日本が出来上がるんです。
戦争を止める様な新指導者を立てて平和を回復したらどうですか
この裏に書いてある都市でなくても爆撃されるかもしれませんが、
少なくともこの裏に書いてある都市の内、必ず全部もしくは若干は爆撃します
あらかじめ注意しておきますから裏に書いてある都市から避難してください


米軍のビラは直ちに憲兵が回収するなどし、かん口令が敷かれたという
『空襲も怖かったが、憲兵にとがめられるのも恐ろしく、とにかく早く手放したかった』
と後に語ってくれた方がおられる






福山市では8月6日の広島への原子爆弾投下のことは
『広島でガスタンクが爆発した・・・』『広島に新型爆弾が・・・』
などと言っていました
原子爆弾だとわかったのは,ずっと後になってからです
警防団は『爆弾の光を見たら昼夜を問わず遮蔽物の中に入るように』と指導していました
指導の通りに市民は簡単な防空壕に入ったまま猛火の中を脱出しようとしなかったみたいです
その結果、火炎と熱風にまかれて焼死または窒息死する人も多くいました
『空襲でぼかぼか爆弾や焼夷弾落とされてるのに、逃げちゃだめだって。逃げるのは、非国民』という指導もあったそうです
『国土防衛は協力一致、隣組の力で持ち場を固め』
『流言に惑うな、当局の指示を信頼して行動せよ』

こんな生活訓が国民に示されるほど、戦争は国民を巻き込んでいっています






『8月9日の朝、火照るように暑い市内に入り、住吉町の水田の中に、母子3人の焼死体を見つけました。 母親は四つん這いになり、胸にすがりついた赤ちゃんを片手でしっかり抱き寄せ、まるで乳を飲ませているようなかっこうでした。 そして、その母親の後ろ足を6才くらいの子が両手でしっかりつかまえて、ひざまずいていました。着物などは焼けてしまって、遺体はまるで、ろう人形のようでした。 水田の中に入っていれば、水があるので助かると思ったのでしょうが、稲は焼け、水は枯れて母子はむし焼きになってしまったのです。』








何が正しくて何が正しくないと
誰もが分らなくなってしまった戦争
何かを言いたくても何も言えないと
誰もが言えなくなってしまった戦争
ひとつを信じて多くを失った後に
そのひとつさえも失ってしまう戦争

この悲しい結末に戦争を起こした国の国民は従うしかない
この悲しい結末を迎える戦争を起こしている国は現在でもある
この悲しい結末を知っている我々がその国に伝えなければならないだろう
この悲しい結末はもう、迎えてはならない


『8.15に定められたもの』

毎日 食べることができる 幸せ
明日を過ごすことができる 幸せ
家族と話すことができる 幸せ
靴を履いて歩くことができる 幸せ
イヤだ と言うことができる 幸せ
それは すべて
8.15から始まった 幸せ


幸せを味わなければならない
笑顔を続けなければならない
人間を育まなければならない
本当を伝えなければならない
平和を祈らなければならない
それは すべて
8.15に定められた 約束

国を守れという 教え
尊皇攘夷進化論という 教え
見えない敵を憎めという 教え
勝つことを信じろという 教え
命を惜しまず没我せよという 教え
それは すべて
8.15に答え合わせをした 教え


人を殺めてはいけない
自ら命を絶ってはいけない
事実に目を背けてはいけない
生き直す力を捨ててはいけない
同じ惨劇を上演してはいけない
それは すべて
8.15に定められた 約束

あもん詩集~ティーンに捧げる宝物~より