幸と不幸と現実と 47 | あもん ザ・ワールド

あもん ザ・ワールド

君へと届け 元気玉

この物語は『半フィクション』です
どれが現実でどこが妄想なのかは
読み手であるあなたが決めてください
この物語は1996年から1997年の
あもんの記憶の中の情報です
現在の情報とは相違がありますので
ご理解ご了承お願いします







『おぉーなるほど!そういうことか!』
あもんはアクセル、スロットル、ブレーキ、シフトチェンジを繰り返すたびにそうつぶやいた
走っているのは山口県の国道だ
山口県の国道は高速道路と錯覚するほど信号が少ない
山道に入れば緩やかに曲がる高速コーナーも多い
あもんはトルクの山と谷を確認しながら走っていた
上り坂で加速域の確認、下り坂でエンジンブレーキの掛かり具合など
初めて乗るバイクの性格を知るために
いろいろ試しながらツーリングを楽しんでいた
今日の目的地は福岡である
福岡は大将の住んでいるところである


『やっぱ、新車はええのぉ~』
とあもんのニヤニヤは止まらない
今日はどれだけバイクと仲良くなれるかというお試し期間だ
最高トルクや最高速の確認は後日に取っておこう
山口県の国道は高速道路と錯覚するほど直線が多い
直線が多いために白バイやネズミ捕りが多いということも知っていたので
ならし運転も兼ねて、スピードは控えて運転していた


『山口って広いのぉ~』
山口県を横断する大阪からの運転者は決まって言う
中国地方で言うと岡山県や広島県も山口と同じぐらい広い
しかし、大阪人は山口県を一番広く感じるのだ
例えば、大阪から福岡までドライブするとしよう
大阪から兵庫県に抜けるまでは交通量の多さから時間がかかるが、距離的には短い
運転スピードは渋滞に慣れているとはいえ普通より遅いであろう
兵庫から岡山へは交通量も少なくなり運転スピードは徐々に上がってく
ここから『旅をしているな~』と、テンションが上がっていくのである
岡山県を走行中もそのテンションは続き
『お!広島県が見えてきたで!』と、ますますテンションがアップする
広島県に入り、尾道、呉、広島市と少し有名な地区を通過するたびに
『遠くまで来たな~』と、この旅の軌跡を思い出すようになる
広島市内では交通量が多く渋滞が多々あるが
大阪人にとって渋滞が恋しくなってきている時でもある
大渋滞とは決してならないので、程よい緊張緩和にもなるのだ


そして、山口県に入る
『なんで、山口のガードレールは黄色やねん!』と、ひとツッコミを終えると
大阪からの運転者は『福岡はまだかいな!!!』となるのだ
なぜなら、運転者は横に広い岡山や広島を走り
山口県を走り始めると運転に飽き始めるからだ
人は飽き始めると疲れが出てくるもので
疲れたら何か刺激がないと眠気も襲ってくる
信号が少ない直線道路が淡々と続く山口県
景色の変化もさほどないとう山口県
『山口県、広すぎるねん!』
と山口県は何も悪くないが運転者の八つ当たりを受けてしまう始末となる
そしてこれは山口県の端である関門海峡付近まで続くのである
開門海峡からは旅のクライマックスのお時間であるため
運転者の機嫌は直っていくのである


安曇野説法会から帰ってきたあもんは
直ぐに行きつけのバイク屋であるモトボックスに向かった
新しいバイクの納車のためであった
大学入学後すぐに買った新車のXJR400は
もう全走行距離は43000kmを超えていた
昨年の秋にセカンドバイクとして買った中古のTS125Rも
全走行距離が17000kmを超えていたのだ
どちらもまだまだ走れないわけではなかった
しかし、どちらも徐々に疲れを現せ始めていたのだった
あもんの旅はまだまだ続くだろう
残り大学生活半年間も大学を卒業してもバイク旅は続くというのは確信していた
あもんの長旅に耐えられるバイク
それがあもんの求めるものであった
色んな旅に同行してくれた2台のバイクに感謝して
動かなくなる前にさよならを言おうと
あもんは2台を売って新車を買ったのだ






~バイク~
バイク それはもう一人の自分
こっちに行きたいと思えば こっちに行き
あっちに行きたいと思えば こっちに行き
動きたいと思えば 動き
止まりたいと思えば 止まる
寒さで震えている時は バイクも震えている
気分よく歌っている時は バイクも歌っている
バイクと別れる時は悲しい お互い悔いが残る
バイクと出会うときは嬉しい お互い遠慮している 
バイクを変えるとき 自分の何かを捨てている
バイクを変えたとき 自分も何かが変わっている
バイク それはもう一人の自分

これは、あもんが今までに綴った詩の第2作品目である
当時22歳のあもんはこの小学生の作文のような文を詩と思っていた
バイクを変えるとき、あもんは何を捨てていたのか
バイクを変えたとき、あもんの何が変わっているのか
それが未だに分らないし、雰囲気は分るが、共感することは無い
ということは表現力が乏しく伝わらない詩であると自己採点をする


ちなみにあもんの記念すべき処女作品は

~変化~
眠れない夜に 自分の未来を考えた
十年後 僕はどうなっているのか?
五年後、三年後、一年後、半年後、明日…
きっと変わっている僕がいるだろう

電車の音が聞こえる
十年後の電車の音は変わっているのか?
きっと変わっているだろう
変わらないといけないのか?
今の自分でいいじゃないか?
成長してなんだ?
大人てなんだ?
子供の心が一番美しい
変わらないということが一番難しい
変わらない自分でありたい

でも 明日 この考えは変わっているだろう


当時は詩というものを読んだことすらなかったあもんであった
この詩は眠れない夜中に起きて、いきなり綴った詩だ
読み手が無理なく読める言葉をリズム良く並べ
伝えたいことを面白く表現して、余韻を残しつつ共感させる
と言うのが詩の面白さだと思うが
この処女作は“読み手に問う”というタブーを全面に現し
最後は読み手に問うた答えさえも変わっているだろうという無責任さだ
恥ずかしいが、これがあもんの詩の始まりだった

しかし、ここから放浪詩人あもんが始まり、今に至っている


これはこれで面白いだろう
愚作と評価されようがこれはあもんが綴った詩だ
しかも、当時は最高傑作だと自己評価した詩だ
そう評価していないと今まで続いていることは無いだろう
そもそも、詩などの表現に評価などいるのか?と思った時期もあった
他人の評価を気にしていたら自分の表現などできないのでは?とも思っていた
これは今でも心の隅に納めている考えで、この要素が全く無ければ進歩は無いであろう
しかし、評価される以前に読み手に伝わらなければ表現ではない
それが例え、“伝わりづらく”ても、感じてもらえば表現として成功例だ
感じてもらえば、心の奥にあり続ければ、いつかは伝わるのが表現でもある


あもんはこの2つの詩をクスッと笑うために保存している
たまに22歳のあもんをクスッと笑ってやるのだ
過去の自分を笑えるということは、今の自分は過去の自分に勝っているということだ
過去に勝っていると思えるということは過去に悔いがないということ
逆に言うと、例え過去に不幸があり悔いがあったとしても
未来で過去の不幸を笑えることが出来れば、過去より幸せと言うことにならないだろうか


ちなみにあもん詩“バイク”から約3年後に綴った詩である
~2リング~
かわいいあの娘をケツにのせ
あっちに行こうアッチッチ
軽快走行 軽装備
すり抜けするするスリルある
渋滞はまって十時台
マップを広げいっぷくぷく
追い越し車線だぶっ飛ばせ
しょせん2ケツだのぼりゃせん
おっちゃんそこで何してる
不思議な世界だなんだこりゃ
眠りの悪魔が降りてきて
そろそろ帰ろう2リング
ほどよくしびれる2リング

うむ。少しは過去に勝っているあもんがいる


ということで、あもんは福山から福岡までバイクで旅をした
途中、一旦停止をしなかったということで違反切符を切られたことぐらいしか物語が無かったので割愛し、あもんは福岡の大将宅へ到着した
『おぉーあもん!DR250買ったのか!』
『はい。XJRとTS売って買いました』
『なんか、最近のDRって優等生になったみたいじゃん』
『俺は昔、DR800乗ってたぜ。あのペリカンみたいなやつ』
『あの雑なレスポンスがワガママで、面白かったけどな』
『あれでウィリーしてて、一回転して廃車になったけどな。あははは』


大将はいろんな意味において、あもんより勝っている


続く