意外かもしれませんが、この理論は、比較的に大きなウエイトを占めていました。

例えば、愚痴を話す人を例に出してみましょう。

 

 テーブルには、AさんとBさんがCさんのことを話しているとします。

もちろん、内容はCさんの愚痴です。

 その時にあるのは、AさんとBさんのポジショニングだと思います。

 たとえ、どんなにCさんが立派だとしても、この二人からすれば、一時的に下になります。

愚痴を言うときは、題材になっている人を見下すことになります。 自分のポジションを優位にし、存在を主張しているのだと思います。

 というのも、自分のことを軸に考えるのが普通だからです。 主観的に考えているからこそ、自然と愚痴が出てくるのです。 相手が理解できないのは、客観的に見れないからです。

 でも、それが普通です。 人の価値観を理解するのは難しく、同情はただの共感でしかなく、相手の価値観に合わせるのは、かなり困難です。

 ところが、愚痴というのは、お互いの共感を合わせるのには、適しているのでしょう。

 この方法で、お互いの壁を少しだけ壊しているのでしょう。


 愚痴そのものは、別に悪いとは思いません。

 ただ、それを話すということは、自分が見ている世界を相手に話すことになり、自分の器が図られるかもしれないので、ほどほどがいいかと思っています。