聞いた話をここに書きます。とっちらかった文ですみません。
国際通りは通学路だった。突然「戦場へ行きます。」と言われた。国のためには女子でも戦場へ行かなければならなかった。先生も生徒たちも、もう一度戻れると信じていた。でも違った。
戦場では食料を運んだり、水や遺体を運んだ。何よりつらいのは、目の前で友人が亡くなるとき。よく「こんなつらいことよりも、死んだ方がましだ。」と言っていた。
戦争が終わってから40年間戦場にはいかなかった。何より生きている時代がほしいと思った。そんなとき嘉手納基地から核がベトナムに。ベトナム人には沖縄を責められた。
壕の中から最後に「助けて」「行かないでくれ」という言葉が聞こえた。3名の友人が亡くなり、8名が重傷。この8名を置き去りにしてしまった。
傷が癒えないまま40年振りに壕に行った。遺骨だらけだった。40年間まったく戦争について話をしなかったことを悔やんだ。話さないのは、忘れようとしていることだと思った。
やっと25年前から遺骨の収拾が始まった。みっちゃんの赤い筆箱。とても明るい子だった。新垣先生のお弁当箱。3/23に卒業せずに動員された15歳の3年生を守ってくれた。
ひめゆり資料館を作るのには5年、1円もなかった人たちに、民間の方々からの寄付でつくられた。資料作りはつらいものだった。6月4日爆弾で亡くなった町田愛子さん。
私は第三外科壕に着いた。第三外科壕は丈夫だったはずなのに、4日目には25~23名亡くなってしまった。
ひめゆり学園に入って初めて見た映画はアメリカ映画だった。男性が女性をエスコートしていた。日本では有り得ない光景だった。
ひめゆり学園に入ったときは嬉しかったのに、16歳で突然英語の先生に「英語は使ってはいけない。英語関係のものはすべて禁止。」服装も変わった。「スカートは禁止。もんぺを履け。ポケットに名前、学年、血液型をかけ。常に薬と包帯を持っていろ。」
言われるがままにスコップで嘉手納基地を作った。しかしアメリカ軍は3日で支配した。
那覇空港は日本軍の基地だった。そこでは「滑走路が塗れていると飛行機が止まれない。スコップをとれ。溝を掘れ。そこに水を入れろ。あまったれるな!」と怒られた。どんなにつらくても、「頑張ろうね。」と言った。そういった教育だった。
追い詰められて、行った場所は首里城だった。大事な城に日本軍は基地を作った。アメリカ軍は「敵を知れ!」と教えられていた。そして「世界的に重要な京都の重要文化財は守れ!」と言われていた。しかし日本軍が首里城に基地を作ったから、城は破壊された。
240名、突然南風原へ動員された。ひめゆりから5キロ歩いた。
先生は「病院に爆弾がおちるはずはない。」ときいた。なのにまるで違った。そこで初めて本当の「戦争」を知った。戦争にはルールはない。
4月1日 米国上陸。むかえたのは9万人だけ。若い人はもちろん、70代の男性も。1000人近く糸数壕に行った。男子は首里城へ。毎晩4~5キロ通信機を運んでいった。上級生には爆弾を背負ってアメリカ軍に突っ込んだことも。
糸数壕で初めて血をみた。手がない、足がない。叫びながら入ってきた。4日間終わり、3000名もいた。場所がなくて座っていた患者もいた。
5月始め、1000名ほど糸数壕へ。患者に対して「顔を背けるな!あまったれるな!」と怒られた。
壕の中で、叫んでいた人が突然声が聞こえなくなった。泣いていたら「泣くな!戦場で人が死ぬのは当たり前だ」と。
私たちは変わった。心を失った。どんな傷を見ても平気になってしまった。
壕では悪臭がずっとしていた。中では、生きている人からうじが出ていた。
24時間砲弾が止まない。糸数壕は丈夫であった。砲弾の音が、糸数壕ではコーンコーンと軽く聞こえた。
夜は変な音がした。うじが傷を食べている音だった。そのうじを自分で処理した。
17歳の先輩たちが、切断した人たちの傷をぬった。切断のときは麻酔を使っていたが、途中で切れた。我慢しかなかった。
夜は毎日死体を運んだ。砲弾の穴に死体や手や足を投げ込む。日本兵は私たちをみて「怖い女たち。」といった。
先輩たちがご飯をこぼしてしまった。上級の兵隊は「人殺し」と言った。食べるご飯はピンポン球程度だった。
糸数壕には多くの患者が運ばれてくる。汚物、うじ、手、足の処理は学生たちの仕事だった。
突然糸数壕から撤退することになった。「行かないで」「置いていかないで」と聞こえた。この声を聞きながら壕を出た。
友人の中には手、足がけがした人も、目がみえない人も。みんなで助けながら15キロ移動した。
6月10日 井原に着いた。隣の壕に行ったら、16人の先輩と先生に会えた。
6月17日 食料を探しに外にでていたら、ドンという音が聞こえた。戻ってみると、足元がぬるぬるしていた。血だった。多くの友人が亡くなった。手がないひと、即死の人、頭がわれた人、内臓が飛び出た人、あごがない人、目がとびでていた人、足がない人。
そして6月18日 突然の解散命令。そして友人の8名を置き去りにした。他に出た73名は未だ見つかっていない。
手をあげて捕虜になるのは恥だと教えられていた。手榴弾のピンを抜こうとした。色々なひとが頭によぎった。抜けなかった。
先輩を助けているのはアメリカ軍だった。教育されたこととまったく違った。水を差し出されても飲めなかった。「No poison No poison」と言われた。
生きていくのには「本当の情報は重要である」。65年間生きてこれたのは戦争がなかったから。平和であることを確認し、新たに平和をつくらなければならない。
今を生きる若者にかかっている。
