君の、艶めいた低き囁きにも、智は何があったかわからず、虚(うつ)けたようになっておりました。
その、見開かれた双の眼(まなこ)が、何とも愛らしく、おぼこめいておったので、翔の君は、我知らず笑い声をお漏らしになられました。


「え?何?おいら…え?」

「いや、済まぬ。智、このようなことは初めてか?」

そう仰られ、再び唇をお触れになられますと、智は小さく体を震わせはしたものの、為されるがまま、そして、微かに、こくり、と、頷きました。


「そうか。そうであったか。ならばわしが心、わからぬでも無理はないのう。
わしは、お前をわしだけのものにしたいと思うておる。そなたの心の内より、他の誰も、皆、追い払って、わしだけにしたいのじゃ」

「な…何?それ…そんなの無理…できないよ」

「そのようにつれないことを申すでない…智、わしが疎ましいか?」

「そんなこと…ないけど…」

「潤士郎には、わしは敵わぬか?」

「何でここで潤が出てくんだ」


智は、真っ赤な顔をして、黙ってしまいました。その様子は、何よりも雄弁に、智の心の内を語っておりました。



どの様に搔き口説こうと、智の内から潤士郎の影を消し去ることなどできぬのではないか。
ならばいっそ、このまま想いを遂げてしまおうか。いや、それでは、これまで育んできたものが壊れてしまう。
智はわしに心を開きつつある。時は満ちる。必ず。あの月の様に。





君は、かように思し召され、改めて智の手をお取りになられると、体をお引き寄せになり、そのお胸に抱き締められました。

「今宵は、まだ月が満ちぬ故、これにて退散致す。されど望月には、あの遠きにある月も、いつもより近こう輝く。その時は…」


翔の君は智の目をしっかとお見詰めあそばされ、先程とは別の熱いくちづけを為されました。



「ん…!…んん…」



お触れになられるだけではない、強く吸い、また、舌先で唇をこじ開け、吐く息すらも呑んでおしまいになられるような為さりように、吐くも吸うもままならず、高鳴る胸は苦しくもがけれど、なす術なく、どこか甘い痺れに、智は、気を跳ばしてしまいそうにございます。
余りの激しさに、君のお背を弄(まさぐ)り、衣を固く握り締めました。



やがてお口を離された翔の君は、眉根をお寄せになり、切ない息を吐(つ)かれました。

智の眦(まなじり)からは、一筋の涙が伝い落ちました。
それを、翔の君は袿(うちき)の袖にて拭って下さりました。

「ごめん…おいら…」

戸惑いを隠さない智を、君は、愛し気にお見詰めになりながら、ゆっくりと頷かれますと、名残惜し気にお立ちあそばされ、そこを去っていっておしまいになられました。

そのお姿が見えなくなってから、智は、はっと致しました。
己の脚の間にて、根が、膨らみ始めていたのでございます。


「おいら…変だ…」

翔の君は、智の体に、快感の種を、お蒔きになってゆかれたのでございました。









その同じ頃合いでしょうか。なかなかお帰りになられない翔の君を待ちあぐねた雅紀は、都のお邸の中を、行きつ戻りつ致しておりました。


そして、戯れに、何の悪心もなく、翔の君の寝所に入り、上がっていた御簾の内に忍び入ったのでございます。
そこには、まだ、微かにあのお方の移り香が、漂っているようにてございました。


「翔の君様…俺たちのこと、忘れちゃったの…?」

雅紀は独りごちて、そっと脇息に凭れ掛かりました。
そうしますと、熱き胸に、麗しいお姿がありありと想い浮かばれ、淋しさもひとしおになるのでございました。




その時より後、この所は、雅紀の心のよりどころとなり、人目を盗みては、参るようになっていったのでございます。