弓張り月
その夜更けて、智の家に、翔の君は、お一人で忍んで参られました。
智は、褥を縁の傍へ延べて、横になりながら、酒を嗜んでおりました。
庭と、その先の竹林と、弓張り月を眺めながら、虫の音に耳を傾け、まったりと時を過ごしておりました。
そうしますと、どこからともなく、虫の音を真似たような笛の音が、聞こえて参りました。
はた、と、思い当たった智は、起き上がり、入り口の戸を開けました。
果たして、そこには、翔の君が立っておられたのでございます。
「え?ど…どうしたの?」
「ちと、二人きりで語らいたいと思うての」
そう申されますと、すっと奥へお上がりになられました。
「そうか…いいけど、おいらんとこには何もないよ」
翔の君を追い、智も続きますと、君は、先程まで、智が横になっていた褥にお座りになられ、外の景色を御覧になっていらっしゃいました。
智が隣に腰を下ろし、胡座を搔きますと、はた、と、智の顔をお見詰めあそばされ、申されました。
「何もなくとも良い。そなたが居れば、それで良いのじゃ」
「う…うん…?」
翔の君の、艶めく眼差しも、熱いお言葉も、門外漢の智には、一向に通じませぬ。
君は、なんとすれば想いのたけを伝えられようか、と、言の葉をお探しになられます。
「今宵は弓張り月。あと幾日かすれば、中秋の名月よの」
「うん。そうだな」
「その、最も美しい月を、そなたの良き声を聞きながら、眺めたいものよのう」
「まぁ、いいけど」
「真か?」
「けど、神楽するなら、潤の父ちゃんと話してよ。おいらが決めることじゃないから」
「いや、神楽のことを申しておるのではない…」
「え?違うの?」
翔の君は月を見上げられ、やるせな気に溜め息為されました。
「まだまだ…今宵の月の様に、満ちる迄は、今暫くかかりそうじゃ…」
その夜は、二人で、何を語るでもなく、月を背に、黒く浮かび上がる竹林を眺めつつ、虫の音に耳を傾けられ、良き頃合いに、お戻りになられました。