「チョコレート」
その言葉はまさに不意打ちに、だった。楽屋のソファーに座り、新聞を広げ隅々まで記事を読むのは日課。俺のことを知っている誰もが周知している、と思っている。
「え?何?俺?」
だから反応が遅れた。自分に言われたかの確信もなく、だけど聞こえた言葉は相葉君の声で間違いなくて。それならその対象は自分かもしれないと、読んでいた新聞から顔を上げた。
「ちょーだい?」
今度はちゃんと聞こえた。何かしらを「ちょーだい」と言って背後から肩越しに俺を抱きしめるけれど、ここがいつ誰が来てもおかしくない楽屋だと言うことを分かってやっているんだろうか。
「ごめん、何?」
「えー、聞いてなかったの?」
「あー、ごめん。もう一度言ってもらって良い?気になる記事があってさ」
聞いてなかったのかと問われれば、申し訳ないけれど全く聞いていなかった。というか、1人だと思っていたのにいつの間に彼は入ってきたんだろう。いつもなら少しの物音でも気付くはずなのに。
「チョコレートちょーだい?って言ったんだよ」
「あ?あぁ、チョコレート。……って、なんでチョコレート?」
「だってバレンタインでしょ、今日」
「いや、分かるけど、俺から?えっと……女の子から欲しいとかじゃなくて?」
こんな会話の中、後ろから抱きしめることをやめない相葉君が耳に唇が付く距離で話しを続ける。もし万が一、誰かに見られた時の言い訳を彼が考えているとは思えない。
「オレ、しょーちゃんから欲しかったのに」
「なんかよくわかんねぇけど……ごめん。バレンタインって女から男へってイメージだったから…」
バレンタインへの俺の意識は低いのかもしれない。朝のワイドショーでそれらしい特集をやっていたから今日がその日だという事くらいは分かっていたけれど。でも、だからと言って貰うことはあっても自分があげる立場になるとは1ミリも考えなかった。
「残念」
「ごめん。いや、マジでなんかごめん。あ、じゃあさ、仕事の後にご飯でもどう?チョコレートじゃなくて申し訳無いんだけど」
なんか地味にめちゃくちゃ焦るのは、相葉君が出した寂しげな声のせい。もっと俺がちゃんとこの日を意識していれば、こんな声を出させる事も無かったのに。
「ふふ」
「何?笑われた?俺?」
「だって、しょーちゃんめちゃくちゃ焦ってて可愛いんだもん。意地悪な事言ってごめんね?聞いてみただけ。正直言うとしょーちゃんがチョコ買うとか思ってなかったんだよね」
「なんだよ、それ」
「だって、しょーちゃんってそーゆーとこ超男じゃん。律儀に貰ったチョコへのお返しもちゃんとするし」
「それは相葉君もでしょ」
「まぁ、そうだけど」
この仕事をしていると、ファンの人たちから含め色々な人から貰うチョコレートは相葉君だって同じ。相当な量のそれらのできる範囲でお返しをするのもそう。そう言うところで俺たちは凄くよく似ていた。
「つーか、相葉君はくれないの?」
「オレ?」
「ん、君。俺からのを求めてくれるって事は相葉君が俺にくれても良くない?」
国によっては男性から女性へ、なんて事も珍しい訳では無いらしく。それならバレンタインという日を意識していた相葉君から俺に、でも良いのではないか、なんて。
「んー、でもやっぱりしょーちゃんからオレに、じゃない?ここ日本だし」
「……どーゆー意味だよ」
「ふふ、そのままの意味だよ?ね?今日、ご飯じゃなくてしょーちゃんち行きたいな、オレ」
その言葉の意味くらいはわかる。相葉君は俺を抱きたくて家に来たいと言っているんだと思う。覚えたばかりの俺の体の味を、時間を無理矢理に作ってでも欲しがるのは今日に限った話ではない。
「……それって、そーゆー事だよな」
「そーゆー事、って?」
「いや、だからさ……」
だけどそれは相葉君だけじゃなくて俺だってそう。知ってしまった相葉君の体が欲しいと思うのは、ここ最近はマジでいつも。やばいくらいだと自覚する。考えたこともなかった男とのセックスにまさか自分が溺れるなんて。不健全だとすら思っていたのに。
「でも、しょーちゃんちでエッチなこと出来ないでしょ?」
そんなことは無い。確かに今日まで、するのは相葉君の家かホテルか、車の時もあったかな。だけど別に自分の家が嫌とかではなくタイミングがそうさせただけだと思っていたのに。
「……え?別に全然いいよ?」
「え?まじ?」
「いや、まじ。つーか逆になんでダメだと思ってんの?別に俺、ダメだって言ったことなくない?」
多分ないと思う。だってダメじゃないから。むしろここで抱かれたら相葉君の香りが残るのに、と思った夜も少なくないくらいなのに。
「元カノの影とかあるのかな、って……」
「は?」
「元カノ?元彼?誰かの痕跡があるんじゃないの?だから家に誘われないんだなって。それにだってそんなの見ちゃったらオレ、しょーちゃんのこと抱けないかもしれないし……」
「……待て、何の話だ?」
「だからしょーちゃん家に呼んでくれないんでしょ?そーゆーの大事にしそうじゃん。写真とか飾ってんのかな、とか……」
誰が入ってくるかも分からない楽屋で二人きりということは珍しい。そしてずっと離れずにする俺たちのこの会話は絶対に誰にも聞かれてはいけない。どの部分を切り取っても。
「くだらねぇ。つーか、誰の痕跡も無いからおいで?お前が言うエッチなことも大丈夫なんで」
「……ホントに?いいの?今日だよ?」
「別に、今日でも明日でもいつでもどうぞ?」
「まじ?ホントにホント?嘘じゃない?超嬉しい、オレ!今日ね!今日絶対だよ?」
「はは!嘘じゃねぇから、わかったって!」
廊下に足音が聞こえて離れていった相葉君が嬉しそうなのは誰が見ても一目瞭然。その姿を見て幸せを感じる俺も相当この男の事が好きなんだと思う。
「チョコレートは良かったのか?」
「うん、もういいや」
「そうなの?」
「うん。いらなくなった」
だってチョコレートより甘いしょーちゃんを貰ったからね、と俺の部屋のベッドの中で俺の体を大切に抱きしめながら相葉君が幸せそうに言った。
終わり