きょう、4月14日(日)の朝日新聞の歌壇・俳壇から。

                                          

 まず、短歌。

 

 「大銀杏(おおいちょう)結えぬ青年けが押して大阪制す「よぐ、けっぱった」」。この歌の作者は、東京都の椿泰文さん。最近常連になりつつあります。

 

 「「記録より記憶」怪我さえけっぱって土俵に上がる津軽じょっぱり」。この歌の作者は、常連の五所川原市の戸沢大二郎さん。

 

 「近未来的アトラクションの雰囲気で吸い込まれゆくMRI」この歌の作者は、常連の奈良市の親子のお母さんの山添聖子さん。お病気の様子はどうなのでしょうか。

 

 「あの頃の母は六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)大人の世界かい間見(まみ)育つ」。「六条御息所」は、源氏物語で、嫉妬のため生霊となる女性。現在放送中の大河ドラマ『光る君へ』に誘われた作品でしょうか。わたくしも、短歌の勉強でもあり、読みかけて進まない『枕草子』の作者の清少納言も出てくるので、興味深く毎回たのしみにネットで見ています。

 

 「散歩道の空き家は三軒閉ざされた雨戸の奥の消えた日常」。「しんどいと言ふてはならぬしんどいと言へば恥づかし能登を思へば」。「追いつけぬ背を追つてゐた長尾さん朝日歌壇の兄貴が死んだ」。この歌の作者は、甲府市の村田一広さん。

 

 「真夜中のナースコールに躊躇(ちゅうちょ)して夜はオムツで朝まで耐える」。この歌の作者は、京都府の男性名の方。「妹が骨折したる経緯(ゆくたて)をふむふむと聞きそののち笑う」。(本来は、「行く立て」「行立」と書いて、「いきさつ」という意味。)

 

 「抱いている親のどこかをつかんでる赤ん坊の手の力強さよ」。本当に力強いかどうかは分かりませんが、もみじのような小さな手でしっかり摑まえていますよね。

 母ザルが子ザルを自分の胸の下にしがみつかせて、屈んで移動する姿を映像などで見ることができます。赤ん坊は、抱っこして歩くと泣かない/泣き止むのというは、猿人類だったころからの敵から逃げるという生存本能だと、本で読んだことがあります。

 

 「遠ざかりまた遠ざかりゆくものを過去と呼ぶとき人は老いゆく」。この歌の作者は、常連の福島市の美原凍子さん。この歌の『評』に、「箴言風の一首。なるほど、過去として遠ざかっていくものの多さが老いを実感させる。」とあります。

 「遠ざかり」が2度出てきます。「遠くへ遠くへ」という意味でしょうか。いずれにしろ「過去」にかかるのであれば、初めの「遠ざかりまた」は無くてもいいのではないかとも思えます。それから、評のとらえる意味と歌の意味とは少し異なるように思えます。歌の「過去」という言葉には、「今となってはもうどうしようもないこと」という気持ちが込められたものなのではないでしょうか。

 

 

 次に、俳句。

 

 「食堂の仔猫(こねこ)トラットリアの寅(とら)」この句の『評』に、「トラットリアは大衆的なイタリア料理の店。同じ内容を別の語で言い換える構造に、童謡めいた味わいも。」とあります。わたくしは、入り組んだ映画を観るような気がしました。

 

 「仮面夫婦などなき恋の雀(すずめ)かな」。よく見る鳩や鴨などでも、つがいで仲良くしている様子が見られます。桂枝雀さんの「つる」という落語(CD)に「鶴は、まことに操が正しい・・・日本の名鳥だ」というセリフがあります。

 

 「引く雁(かり)にひとり手を挙ぐ畑の人」。「庭蜥蜴(とかげ)だんだん餌に反応す」。「家族にはわざとむっつり合格子」。

 

 「貧しさの果ての一握の種を蒔(ま)」。この句の作者は、一宮市の岩田一男さん。「能登に来る燕(つばめ)は我が家探しをり」。この句の作者は、常連の市川市のをがはまなぶさん。「生きがひは生きがひつくること日永」。この句の作者は、塩尻市の古厩林生さん。

 

 今回は、上のようでした。