さきの、3月19日(火)の読売新聞の歌壇・俳壇から。

 

 まず、俳句。

 

 「あのことはあれでよかった鳥雲に」。この歌の作者は、東京都の中島徒雲さん。この句の『評』に、「誰にもこんな時があるもの。その気持ちを正直に表現して、季語の選択が巧みである。鳥たちが北へ去って行くように。」とあります。

 「鳥雲に」とは、ヒバリが一羽で高く上がって居場所が分からなくなるのとは違うようです。ネットの辞書には、「鳥雲に」は、「読み方:トリクモニ 春先にガンや白鳥などが一群となって雲間に去ってゆくこと」とあります。

 過ぎたことは忘れてしまおうというときに、白鳥の群れが高く遠く去って行く光景はまことに似つかわしいと思えます。

 

 「鶴引くや人には見えぬ空の道」。この句の作者は、川口市の清正風葉さん。この句の『評』に、「北帰行する鳥は多いが飛ぶ姿の美しさなら鶴が屈指。鶴にしか見えない一筋の道が空にはあって、今年もその細道を辿(たど)り返っていく。」。ロマンのある詩ですね。

 ネットの辞書に、「引鶴」は、「読み方:ヒキズル 春、北方へと飛び去るツルのこと」とあります。「鶴引く」ということばでは見つかりませんでした。

 

 「蕗味噌や母を語ればきりもなし」。「母わたし叔母もふくよか桜もち」。「はひはひの摑まり立つよ雛の段」。

 

 「ユーミンの突き抜けし声春の朝」。この句の作者は、太田市の男性名の方。この句の『評』に、「松任谷由美さん、ユーミンの歌声を「突き抜けし」と表現しているのは、適切であると思う。春の朝の明るい気分も感じられる。」とあります。

 いま少し合点がいかないのですが、ユーミンさんは、わたくしが中島みゆきさんの次に高く評価している歌姫なので、引用しました。ひょっとしたら、『春よ、来い』という曲のことでしょうか。突き抜けるというのは、「はるよ~」という部分でしょうか?

 

 次に、短歌。

 

 「ブギウギの笠置シヅ子の舞台見きわたしのとっても若かった頃」。「きさらぎの光の中のポンカンよわれにも若い日日のありしよ」。「よ」が二つついています。

 

 「この雨の外へ出たいというぐらいウーバーイーツは自転車をこぐ」。「春風の坂道をたやすく子は進むひだりみぎへと自転車揺らし」。「一輪の椿のいのち受け止める輪島漆器の内なるひかり」。

 

 「絵ハガキに大きなバアバ足もとにちっちゃいジイジ敬老の日くる」。この歌の作者は、川越市の女性名の方。この歌の『評』に、「小さな孫にとってバアバはとても大きな存在。ジイジはよほど影が薄い。子供の描く絵は正直。「足もとに」がおもしろい。」とあります。わたくしもジイジ。ハイジじゃありません。

 

 「家中に枯れた葉っぱが落ちていて終着点で二歳はねむる」。この歌の作者は、東村山市の月出里ひなさん。この歌の『評』に、「外遊びで拾ってきた葉っぱだろう。ヘンゼルとグレーテルのパン屑のようにたどっていけば、疲れ果てた二歳児がいる。終着点という表現が、時間と空間の流れを感じさせて効果的だ。」とあります。

 

 「身のほどに生きただらうか九十年陽にかざす手に指紋なかりし」。そういわれて、冬の乾燥とコロナからの手洗い習慣でカサカサの吾が手を見れば、わたくしの指の腹にも指紋がほとんど見えなくなっています。わたくしは九十までまだ二十年ほどあります。

 

 紙面右下の、『枝折(しおり)』の欄。句集・歌集の紹介の中の、富田豊子歌集『臥龍梅』から引用された歌。「網繕ふ老いたる漁夫よ波止に居て風のことばを聴いてゐるのか」。

 

 

 今回は、上のようでした。