さきの、2月19日(月)の読売新聞の歌壇・俳壇から。

 

 まず、俳句。

 

 「雪合羽泳いで来たと笑ひけり」。この句の作者は、埼玉県北本市の男性名の方。「寒さより淋しさ感ず起き抜けに」。この句の作者はあきる野市の女性名の方。

 

 「パイロットを夢見る二十(はたち)初化粧」この句の作者は、神戸市の男性名の方。句の主人公はお嬢さんでしょうか。成人式の晴れ姿のことかもしれません。

 

 

 「蕪ならば貴方の拳ほどと答ふ」。この句の作者は、東京都の女性名の方。この句の『評』に、「畑の出来を訊ねられたのか。「貴方」はいま畑仕事が出来ず、気掛かりなのだ。とても省略されているので、意味がわかりにくくはあるが、不思議に心惹かれる素敵な句だ。」とあります。

 

 

 つぎに、短歌。

 

 「服を着る犬ばかりゐる公園に素っ裸なるシェパードがくる」。「すこしだけここのあたりが寂しいと床屋はいわなくていいことをいう。」この歌の作者は、常連の東京都の野上卓さん。

 

 「千年の雅纏いて家毎の節まわしあり百人一首」。この歌の作者は、神戸市の坪田克彦さん。この歌の『評』に、「正月に家族で百人一首をしている。すばらしい習わしである。札を読み上げるときの節まわしは代々受け継がれてきたのかもしれない。まさに「千年の雅(みやび)」を感じる。」とあります。

 

 「銀紙がきみに折らせた鶴三羽翼にミントの香りを残す」。この歌の作者は、大和郡山市の大津穂波さん。この歌の『評』に、「まるで銀紙が望んで転生し、前世の香りを残す鶴になった物語のようだ。ミントチョコレートを包んでいた銀紙で、きみが鶴を折っただけのことなのに。」とあります。

 

 「傷ついてないふりばかりノンホールピアス揺らして頷いている」。「「耐えている」ことを「できる」と見做されて鯨の長い長い息継ぎ」。

 

 上の3首に限らず、わたくしが自分で作る短歌もそうですが、記憶している万葉集の代表的な歌に比べると、現代の歌には技巧が多く感情過多のように思います。時代の流れというものでしょうが。

 

 「まだ慣れてゐないだけよ靴擦れに絆創膏を貼るやうに言う」。「ただ残る母の手紙は清瀬なる療養所から昭和の消印」。

 

 次の歌は、修行中のわたくしに疑問に思える作品。「トンネルにルビーの羅列優しいと思った人の粗暴なる夜」。この歌の作者は、鴻巣市の女性名の方。ルビーのような照明のトンネルを通って入った宿の夜の出来事なのでしょうか。よく分からない作品で、選者はどこをよしとされているのでしょうか。

 

 今回は、上のようでした。