昨日も肌寒くありました。
それでも、もうあちこちで、ソメイヨシノの花が開き始めているのを見かけるようになりました。
先日、3月27日の朝日新聞の歌壇・俳壇から。
 
まず、俳句。
 「里人と生き継ぐ蝌蚪(かと)でありにけり」。「蝌蚪」とは、ネットの辞書に「オタマジャクシの別名。[季] 春。」とありました。
 「芽吹く季(とき)我も如何にか芽吹かむと」。みんなガンバリましょう。
 「今日もまたぶらんこ人待つごとし」。わたくしは、これは、ご老人が日中の一時を公園のブランコで過ごす様を詠まれたのだと想像します。
 「如月(きさらぎ)や僕の運命決まる時」。この句の『評』に、「十五歳」とあります。高校受験なのですね。率直に自分のことを詠み、そのまま誰にも共感してもらえる普遍性を持っています。
 「合格の知らせに弾む田打ちかな」。「田打ち」とはネットの辞書に「春、田植えの準備のため、田を鋤()きかえすこと。田を打つこと。《季 春》」とありました。作者は越谷市の女性名の方です。家族や親しい親類のお子さんがどこかの進学試験に合格されたことを喜ぶ歌なのでしょう。
 「戦乱の世を生き延びて青きを踏む」。「青きを踏む」とは麦踏みのことでしょうが、「戦乱」とはアジア太平洋戦争のことでしょうか。
 「芽柳の色を走らせオール漕ぐ」。この句の作者は大津市の方。場所は琵琶湖でしょうか。
「水となり水脱ぎ白魚汲まれたる」。おもしろく巧みな表現です。
 
次に短歌。
 
「清らなるもの卒業の前の日の最後の掃除を終へし教室」。女性名の作者は高校生だと思われますが、文語と旧かなづかいを上手に使っておられます。言葉は、75587の音が並んでいます。只者ではないとおもわせられます。
「工場の最高齢の受刑者となる誕生日青き冬空」。この歌の作者は常連の獄中の十亀さん。同じ作者の歌で、今回はもう一つ。「多喜二の忌懲役労働もくもくとこなしてをりぬ窓に粉雪」。
「荒磯で生きるサザエに神様は虹色の部屋与えなさった」。
「わが愛(いと)しの三人の子の元の元の義父の体をくまなく洗う」。この歌の作者は女性名の方。すばらしいと思います。今回、後に記しますようないわば表面的な言葉並べではない、心の底からの言葉のように受け取られます。もちろん、介護の日常にはいろいろなことがおありでしょうが。歌というものの訴えること、祈ることのようなありようの姿の一つのように思えます。
「小学校統廃合の更地には同じ顔した戸建てが並ぶ」。社会詠というものでしょう。
「幾つものさよならにふる三月の雪はほろほろひらがなでふる」。この歌の作者のお名前は前回もご紹介した「(福島市)美原凍子」さん。前回「霙」という言葉が詠み込まれていましたので、わたくしご本名でしょうかとコメントしたのですが、雪は凍ってはいませんので、どうやらご本名のようです。いや小さい氷ではありますかね。
「海に雪枯れ木に朝日胸に傷無駄なものなど何もないから」。この歌の作者は女性名の方。乳がんでもなさったのでしょうか。そのことをご自分で納得しようとなさっているのでしょうか。
「四ミリのカタツムリやっと冬を越え小さいツノ出しキャベツを食べる」。
 
短歌修行をしているわたくし個人として、今回は、どうなんだろうかと、疑問に思う作品を記しておきたいと思います。今回は、少なからず目についたからです。なるべく、ひとさまの作品をわざわざこの場所に引用して、否定的なコメントを記すことは原則控えたいとは考えているのですが。
「先生のメガネを直す回数を数えてしまう午後の数学」。(まあ、これは、中学生か高校生の方の作品でしょうから、若い方の歌作を奨励するという観点から掲載作品とする意義はあるのだろうと思われます。)
「押し寿司のやうな短歌を詠みし後ばら寿司のやうな小説読みぬ」。
「気晴らしは身近な暮らしの内に在り掃除長風呂竹踏み散歩」。
「爪のかたち知つてゐるよね頭を上に落りてきなさい君も猫なら」。
「葬儀中貰いたる布施入れておく金庫まである僧侶控え室」。
これらは、短歌の形に整えてはありますが、ユーモアや言葉遊びの面がつよく、まあいわば、深さ、美しさ、尊さのような面が少ないように思えます。まあ、新聞の歌壇はそれでいいのだということではありましょうが。
 
今回は、上のようでした。
 
【追記】H29.3.29 18:20
上の日記の最後の部分の否定的なコメントに関し追記します。
今朝通勤途上、自分の書いた部分を反芻し、「深さ、美しさ、尊さのような面」に加えるに、喜び、悲しみ、時には怒りもあっていいのではないかと思いました。そうするとさらにそれに加えて、時には、笑い・ユーモアや、言葉遊びだっていいのではないかと思えてきました。
以前に、面白い、言葉遊びだなと肯定的に読んだ短歌もありました。今回は、数が多く目についただけなのかもしれません。