昨日までに、岩波文庫の『啄木歌集』の中の『一握の砂』と『悲しき玩具』を読み終えました。
先週の入院の時間でだいぶ読み進めたのです。病室では、この本のほかに、カズオ・イシグロさんの小説『わたしたちが孤児だったころ』も手にしましたが、こちらはあまり進みませんでした。
短歌を修行中なものですから、岩波新書の『万葉秀歌』や『茂吉秀歌』などを読みましたが、一人の歌人の歌集まるまるを読んだのは初めてでした。
わたくしのこのサイトでの日記の初めの頃、昨年12月25日の日記に、 『石川啄木』(ドナルド・キーン著、角地幸男訳:新潮社発行、2016.3.30 第2刷発行)の読書メモを書きました。
その予備知識もあり、明治の歌人でありながら、非常に現代的な感性で、自分のことを詠った啄木の歌集を、ぜひ読み通してみなければと思っていたのです。
正岡子規が、俳句の革新活動の中で、正確な言葉ではありませんが、芭蕉の俳句でもいいものは十に一つぐらいだとかいって、蕪村を高く評価したりしました(というようなことを本で読みました。)。
そのことも頭にあって、啄木の短歌も、一冊の歌集の中では、もちろんすばらしい、すごい、と思う短歌もたくさんありましたが、そうでもないな、と思う短歌も少なくはないのでした。
それから、啄木は、明治末の歌人ですから、当然、文語の旧かなの短歌です。わたくしの短歌修行においては、 文語/口語、旧かな/新かな の壁が意識されるところなのです。
わたくしも老人の部類ではありますが、文語と旧かなは、だいたいのところは読めはしますが、自分では使えません(短歌の文法という通信講座を受講中ですが、これが進みません。)。
啄木の歌集を通して読んで、57577という短歌の韻律には、やはり、文語・旧かなこそが相応しいのではないかと思いました。もちろん、口語・新かなで、今日も作品は生み出され続けていて、もちろんいい作品もたくさんあるのでしょうが、57577に、「本来」とまでいわずとも、「より」なじむのは、文語・旧かななのだろうと。
今回、いいと思える歌に印をつけました。今後も、この『啄木歌集』を座右において、短歌修行を続けたいと思います。