私は40年以上前、浪人生であった。
自由の無い生活に鬱屈としていた時もあり、随想みたいなものをメモ帳に書いていた。
ほぼ原文のまま、ここに残しておく。
T:Teacher S:Student
T:君はどこの大学を受験するつもりなのかね。
S:はい、東大を目指しております。
T:では、君は何を専攻するつもりかね。
S:いえ、まだ決めていません。
T:じゃあ、君は何になりたいのかね。
S:それも、これといってありません。
T:なぜ東大を目指すのかね。
S:東大は名前がよいし、後々が安心ですから。
T:でもいくら東大といっても、自分の真にやりたいことができなければ、いつかは挫折するのじゃないかな。そんな例も多いよ。
S:私は、今まで生きてきて、何がやりたいのか発見したことはありませんでした。高校も私にそれを教えてはくれませんでした。大海のひとしずくも知りませんが、他の人は自分の進みたい道を決め、希望の学部、学科を優先し、大学の難易をその下においているのを自慢しているようです。
ぼくには、彼らは自慢できるほどりっぱだとは思えないんです。彼らは確かに自分の道を持っています。しかし、その道は彼らが自分の力で作ったものなのでしょうか。多分彼らには、その道をひく力も自由も与えられていないでしょう。彼ら、そしてこの私も、道は生まれ出たその瞬間からひかれているものなのです。その道は一本の筋の通ったものであって、そこから脇にそれることはあっても、この一本筋の範囲を出ることはないと思うんです。我々受験生にとってその道とは、進学の道であって、間違えては困りますのでいっときますが、その進学は、学問追求のためではなく、大学卒業後の生計をいかによく立てるかというためのものです。だから彼らは、自分自身の道を持っているようで持っていないと思うんです。私はもっと責められるべきかもしれません。
話は元へ戻りますが、学校に責任はないと思うんです。学校は、私たちがその道を進んでいくようにあと押しをしているだけなのです。つまり大学入試のためのことを行っているのであって、大学の紹介をしているのではないのですから、自分の行きたい大学は自分で決めろ、そうすればそれを手伝ってやるといったもので、何ら強制はしていないわけなんです。悪いのは社会の風潮なのかもしれませんが、自分一人の力ではどうすることもできませんので、仕方がないんです。もっとも、この気持ちがいけないのかもしれません。だから僕は、何をやりたいのかと聞かれても、答えることはできないし、たとえ答えても、それは心の奥底からでてきたものではないんです。
T:君の言いたいことはよくわかる。しかし君の言うその決められた道の中で、自分の意志を持たなくちゃいけないじゃないかな。
S:たしかにそうかもしれません。しかし自分の道を決める力も自由も持たないのに、自分の意志を持っても仕方がないんじゃないでしょうか。その意志は与えられた命題をもとにして考えるようなもので、そんな意志はかたわだと思います。その意志はある範囲を出ることはありませんし、必ず限界があるものです。もちろんこの意志と、あいつは意志のないやつだとかの用法の意志とは少し違います。前者は、後者よりも抽象的で性格的要素が少ないものです。ぼくは、完璧な意志とは、自分の道を自分で決め、その上での意志だと思うんです。
(続きあり)