私は漫才や漫談、色物(手品、曲芸)をテレビで幼少の頃から見てきた。漫才ブームは1980年頃であるが、私にとって、ブームは関東の漫才師を見る機会が増えたという認識しかない。
テレビを付ければお笑い番組をやっているのだから、好き嫌いというよりも、当たり前の存在だった。(少なくとも昭和40年代以降は)。
ただ関東では関西の番組は余りやっていなかったので、関東人は、ブーム以前は関西のお笑いを知る機会は余りなかったのではないだろうか。
ここでは、関西人にとって余りにも普通のお笑い芸人を紹介しようと思う。まずは、漫才から始めよう。
Wヤング(1964年結成)
このコンビを最初に取り上げたのは、実物を見た事があるからである。鳴門市の市民祭りに来ていた。舞台の後、取り巻きに囲まれて外を歩いていたが、別々に歩いていて、普段は横に並んでいないのだと知ったものである。
芸風はダジャレを言うスタイルであるが、これは何となく今のナイツに似ている気がする。なお、1人は借金問題のため41歳で自殺した。
いとし・こいし(1937年結成)
この人たちは凄いの一言である。私が見だしたときから既に歳をとっていたが、しゃべり能力は半端ない。ボケ、ツッコミの流れを破綻なく演じる。五万、七万、十万円、運命の分かれ道、という、「がっちり買いまショウ」の司会でも有名である。重鎮という言葉が相応しい。
てんや・わんや(1952年結成、関東側に分類されるようである)
中学の時に、あだ名が「わんや」という先生がいた。それは、眼鏡で頭がハゲていた瀬戸わんやに似ていたからである。どんな漫才だったかと聞かれると、余り覚えていないが、まあまあだったように思う。
人生幸朗・生恵幸子(1954年結成)
ぼやき漫才で一世を風靡した。夫婦漫才であるが、幸朗の方が「まあ皆さん、聞いて下さい」と一方的にしゃべり、幸子は「相も変わらずねえ」と合いの手を入れる。初期の頃は、幸子は余りしゃべらなかった様に思うが、後の方ではきついツッコミをすることもあったように覚えている。流行歌を斬るのは結構好きだった。
レツゴー三匹(1968年結成)
このトリオはよくテレビに出ていたが、それほど面白いことを言うわけではない。真ん中の正児が、「三波春夫でございます」と物まねを披露して、両側から顔をはたかれるのを、つかみのギャグとしていた。
唄子・啓介(1956年結成)
この2人は一時結婚していたが、離婚した後もコンビは継続していた。大口の京唄子が、離婚した鳳啓助を「このエロガッパ」となじるのが持ちネタであった。特にこの2人が司会する「おもろい夫婦」は、年配の人にも若い人にも大人気で、私の家でも見ていた。番組に出てきた夫婦で、浮気性の旦那を京唄子がばっさりと斬るのが名物であった。この番組では、世の中には、素人でも面白いことを言う人は結構いたのを知った。
正司敏江・玲司(1963年結成)
これも、離婚してもコンビを続けた漫才師である。どつき漫才で有名である。このどつきは半端ではなく、跳び蹴りまで登場する派手なものだった。敏江には持ち歌もあり、147センチこのからだ、というフレーズがあり、かなり小さい方だった。
コメディNo.1(1967年結成)
アホの坂田と前田五郎のコンビで、坂田利夫のアホキャラが際立つスタイルだった。キダタロー作曲の「アホ、アホ、アホの坂田、・・・、アホのサーカーター」の曲は、結構売れた。これほど覚えやすい曲はない。
ちゃっきり娘(1964年結成)
3人娘の漫才師は、かしまし娘(1956年結成)、フラワーショウ(1961年結成)が他にいる。どれも、楽器を持って歌いながら漫談をする。それぞれ「ちゃっきりちゃっきり、ちゃっきりな・・・」、「うちら陽気なかしまし娘・・・」というオープニングorエンディング曲がある。フラワーショウも持ち歌はあったと思うが、一人のスローテンポなしゃべり以外覚えていない。
トリオでの漫才は少なくなったように思う(コントでは見かけるが)。
つづく