親ガチャがどういう意味か分からなかったが、金持ちの親の元に生まれると人生成功、みたいな意味で使われるらしい。

 

 子供は親を選べないとは言うけれど、そういう親の元に生まれて育ったので、そういう子供となったという見方もあるので、両者を独立して考えることはできないのが真実である。

 

 それはともかく、親が金持ちかどうか以上に、個体は遺伝子に大きく依存してるのであるから、生物学的に親ガチャというのはかなり正しい。社会において成功しやすい能力の傾向はあり、それは遺伝子に左右されるので、どの親の元に生まれるかで、社会での成功のしやすさはある程度決まっていると言えるだろう。

 

 そういった能力を生かすかどうかが重要だ、とも言われ、それは後天的な努力によって達成されるのだ、と主張する人もいる。だが、よく考えれば、努力する意欲というのも遺伝子で決められているとしたら、努力できるのも天賦の才かも知れない。

 人生はロールプレイングゲームのようなもので、戦士は戦士としての役割を、魔術師は魔術師としての役割をずっと演じる。我々の言う自由は、カテゴリー内での自由なのである。

 

 人の能力は遺伝子でかなり決まっていると言っていいだろう。だったら、社会としてはその能力を生かすように適材適所に付けるのがベストであろう。人間社会の仕事に合わせて能力はそれほど細分化されるわけではないので、職業選択の幅は、ある程度あると言えよう。

 

 でも、能力が天賦のDNAで決まっているとしたら、これはかなり不平等ではないだろうか。ここで思い出すのは、プロテスタンティズム(特にカルヴァニズム)のことである。

 

 聖書によると、最後の審判の時に救世主が現れ、死者は蘇り永遠の命を与えられる。救済されるのは全員ではなく、神に選ばれた者だけである。カルヴァニズムでは、救済されるかどうかは神が決めるので、人間の善行には関係ない。しかも最初から決まっているのである(予定説)。

 

 まるで、遺伝子のことを言っているようで、何をしようが運命は決まっているのである。

 

 ここで虚無が発生するだろう。頑張っても頑張らなくても結果が変わらないなら、頑張ること自体に意味はない。と、普通は考えるだろう。

 カルヴァニズムでは、絶対的神に全てを委ね、与えられた職業(天命)に禁欲的に邁進することになる。それが、神に選ばれていることの証と信じるのである。マックス・ウェーバーによると、これが資本主義の精神につながる。

 私はマックス・ウェーバーを読んだことがないが、小室直樹の一連の著作では、この話はよく引用されている。

 

 救済には、生前の行いなど関係ないというのは、結構分かりにくい。因果応報と真逆である。

 一方、親鸞のいう絶対他力はカルヴァニズムに似ているとも言える。全てを阿弥陀如来にすがって成仏を期待する。自力はかえって邪魔なものである。念仏を唱えるのも、自力ではなく阿弥陀如来の力によるものである。

 

 頑張れば何でもできるように思っている若い人はいるが、歳を取れば段々と限界も分かってくる。我々は無力であり、神にすがりつくしかない。すがりついても神は沈黙し、救済してくれるかどうかは神が勝手に決める。それでもできることはすがりつくこと、念仏を唱える事だけである。

 我々は人生の意味を求めたくなる。その欲求自体がDNAに含まれているのだろう。それがあるおかげで、自殺せず生き残っている。

 

 人は絶対的孤独者として生まれ、たまたま同時代の世界を他者と生活し、やがてその世界から消滅する。ように見える。だが、それは予想しているだけで、自身が本当に認識できるのは自分がその時間に存在する間だけなので、生と死は特異点である。解消するには多次元で考える必要がありそうである。

 こういうことを時々考えながら、日々を過ごすのである。(分かるかな)