現在も大学受験に臨んでいる人も多いであろうが、かつてはもっと受験が厳しい時代があったことを知っているだろうか。受験戦争と言われることもあり、それはベビーブームの世代が受験を迎えたときが最高潮だったと言える。

 受験戦争とは、志願者がどれほど大学へ進学できるかという尺度では測れない。受験生が、特定の大学を狙って集中するからこそ、受験戦争なのである。そのためには、浪人も当たり前であった。良い大学=良い就職先という図式が、成り立っていた時代である。

 

 どこを狙って受験するかというと、1970年代では、都市圏の国立大学、特に旧帝大、および地域を含めた国立大医学部である。ここを目指す受験生の競争は厳しかった。地方国立大がそれほど難関ではなかったのは、田舎に就職先がなかったので、結局は都会に職場を求める必要があったためで、それなら都市圏の大学となったのである。

 

 1970年代の国立大に受験生が集中したのは、就職先という面のほか、学費の安さがあった。私が入学した1979年で144,000円、1975年では36,000円である。

 

 田舎人にとって、地方の国立大に進学するか、都会の同じ難易度の私立大に進学するかは、結構悩ましいところで、就職先を考えたら都会の私立大学、学費を考えたら地元国立大学になる。だから、両方のメリットがある都市圏国立大学か国立の医学部を無理をしてでも目指したわけである。

 

 1970年代後半から、私立大学との差を埋めるため、国立大の学費は段々と値上げされてきた。そういう学費の格差が少なくなったこともあり、都会にある私立大学の難易度も上がってきた。もちろん、大学への進学率も上がってきたことも理由の一つである。

 

 1970年頃だと、誰にでも知られている私立大学は早稲田、慶応くらいで、後は六大学野球で知られていた明治、立教、法政などである。MARCHの各大学(前述の他に青山、中央)はある程度知られていたが、難関大学とは見なされていなかった。関西では、同志社、立命館、関西学院大学はある程度難関な大学として知られていた。

 なお、甲子園をわかせた超高校級投手の江川は、慶応大を目指して受験したが、どこの学部も受からず、結局法政大学に進んだ。江川は、後で色々な物議を醸したが、10年に一度の投手だったことは間違いないであろう。慶応大学は江川を取りたかったのだろうが、推薦入学という裏技を使わなかったということで、名をあげた。

 

 1970年頃の受験熱はすごいもので、受験地獄、教育ママゴン、四当五落(睡眠時間が4時間で合格、5時間で不合格の意味)、受験生ブルースなど色々あった。

 

 こういった受験地獄を少しは緩和しようとして、共通一次などの試験改革など行われたが、あまり効果はなかった。かえって大学のランク付けが明確になってしまった面もあった。

 

 現在は、難関大学は難関大学のままで残っているが、私立大学は学力に合わせて選択の幅が広がって、希望すれば誰でも大学に入学できるようである。いわゆるFランの大学が結構あるが、そこに行って就職がいいかどうかは結構微妙なところもある。だが、高卒という響きも軽蔑して使われることもあり、難しいところであろう。

 

なお、私の現役受験の頃は、一期校二期校があった時代で、一期校を落ち、二期校として地方の某国立医科大を受験した。このときの競争率は確か10~20倍くらいで、一つの教室に受験生が40名程度いた。この中で受かるのは二,三人かと思うと、受かるわけがないと感じたことを思い出す。

 

 おこがましくも受験生へのアドバイスである。

 どこの大学に行ってもいいと思うが、そこで何をすれば自分が最も楽しく感じるかを知って欲しい。そしてその関連の職業を選べばいい。在学中に、その職業を目指して努力をして欲しい。これは単に就職活動だけを言っているのではない。

 

 仕事をするのは大変で、今振り返るとけっこうつらい体験もしていて、よく乗り越えてきたと自分で思うこともある。これは、まだその仕事が好きだったから我慢できたためで、向いていない営業の仕事やコミュニケーションの必要な仕事だったら、早々に辞めるか身体を壊していたであろう。

 

 人生に勝ち組や負け組などない。振り返って納得できたかどうかである。そのためには、人生を大切に生きて欲しい。