筆者の子ども時代、1950~70年代の北東北の暮らし。
雪が多かった。ただし夏は今より朝晩は涼しくしのぎやすかった。
幹線道路は舗装されていたものの、未舗装の道路が多く、魚屋が並ぶ通りは、砕いたホタテの白い貝殻が土の上に敷き詰められて、泥が跳ねるのを防いでいた。歩くとザクザクと砂利道とはまた違う音がして、愉快な気分になった。
雨や雪解けの時期は道路事情は泥んこで大変だったが、その分、夏の照り返しは少なかった。
電柱や街路灯の柱は全て木製で熱を持たない。
雪国の繁華街はコミセとか雁木と呼ばれる雪よけのためのアーケードを歩くので、夏はカンカン照りを避けることができた。
建物の窓枠は木枠であったため、気密性は保たれていなくて、冬場の室内の冷えは大変なもので、室内に乾かしておいたタオルが、朝にはパリンパリンに凍り付いて板のようになった。
ほっぺたや手足の指先は赤くなって痒かった。ひどいと紫色になって少しヒリついた。
早い話が、冬場はみんな軽度の凍傷にやられていたのだ。
暖房は薪ストーブと囲炉裏の炭火、こたつや手あぶりの火鉢も使った。炭団のカイロや湯たんぽも使った。
ハクキンカイロ(ベンジン使用)は寒い場所に行くときはとにかく必需品だった。
数年前まで持っていたが、いまや5000円もする高級品になっているとは知らなかった。
春先や晩秋には、炉や火鉢の炭に日中は灰をかぶせておいた。
冷えてきた夕方にすぐ炭を足せば火が付くように、火種を絶やさないようにした。
火種を絶やすと下手だと言われた。炭の組み方や灰のかぶせ方の塩梅がものをいうのである。
そして、燃え尽きた炭が灰になり、溜まると、それを食器洗いなどの洗剤やワラビのあく抜き、畑にまく石灰として使った。
昔の炭は燃え尽きるときめの細かい良質の灰になったものだった。
その後、ストーブは石炭にかわったが、家庭で石炭ストーブを使った覚えはない。もっぱら学校や大きな建物だったような気がする。きっと、ばい煙が酷かったから家庭向きではなかったのだろう。
学校の昼休み時間に、生徒は当番で炭小屋に薪や石炭をとりに行った。
先生は、嫌々運ぶんじゃなくて、よく目を凝らして石炭を見てみなさいと言った。
私たちは、砕かれた石炭の断面に何億年も前のシダ植物の化石を見つけては、興奮して叫んだものだった。
今思えば、いい教育だったと先生に感謝している。
家庭では、石油ストーブになり、さらに電気と石油併用のストーブになった。
湿気が多いため、奈良時代以降、日本ではオンドルは定着しなかったらしいが、この頃は燃料を喰う床暖もまだなかった時代である。



