筆者が2005年のブログを再掲する意図は、いたずらに大災害発災への恐怖心を煽り立てることではありません。

 

最近、当ブログを続けて読んでいただいた方にはご理解頂いていると思いますが、今、わが国を大地震・津波が襲えば、特に日本海溝・千島海溝地震による津波が起きれば、国家備蓄石油の3割程度は搬出不能になり、最悪の場合は失われる可能性があります。

国内最大の備蓄量を誇る苫小牧東部国家石油備蓄基地、第2位のむつ小川原基地、久慈基地、日本海側だが秋田基地、と東日本の大きな備蓄基地が北海道・北東北に集中しているからです。

 

米国イスラエルによるイラン攻撃に端を発したオイルショックは、いまや世界の政治経済を大混乱に陥れています。

エネルギー供給の中東依存度の最も高いわが国は世界屈指の地震国であり、石油備蓄量が多いとはいえ、常に災害による損失を考慮しておく必要があります。

 

もしもホルムズ海峡が開放されたとしても、エネルギー資源関連施設の多くが攻撃により損壊しており、復旧には年余の時間を要することは様々な報道を通じて、われわれ一般市民の知るところとなっています。

 

経産省をはじめとする多くの関係省庁の官僚は帰宅することもかなわず、日夜必死の努力を続けているに違いありません。

閣僚たちもゴールデンウィークには世界中に散らばって、石油・ガスの調達に動いたことは理解しています。

 

ただ、高市首相の国民に向けたメッセージに問題はないでしょうか。

私(高市氏)をはじめ政府が頑張って、石油・ナフサの調達に走り、目途がついたから大丈夫、というメッセージは国民をミスリードしていないでしょうか。

政府がフリップを掲げ、国民に対し、石油事情にかかわるデータを示し、丁寧に説明したことがあるでしょうか。

 

パニックを恐れるのは理解できますが、必要な節約や生活様式の見直し、社会全体での対応策について国民に協力を得ないまま、大丈夫の一言で済ますのは、後のち、国民を困窮に追いやる原因になるのではないでしょうか。

『中東情勢を踏まえた緊急的激変緩和措置』としてのガソリン・電気・ガス補助金は有難いのですが、だからといって、エネルギー資源が湧いて出てくるわけではありませんし、いつまでも財源が続くはずもありません。

 

また、これほどのエネルギー・経済危機にあって、高市首相をトップにした省庁横断的な『緊急石油対策推進本部』が内閣府に設けられたという話を耳にしません。これは尋常ではありません。

 

現在の高市氏の進めるエネルギー問題対策は、実際は敗戦を重ねているにもかかわらず進軍ラッパを吹き続けた旧大日本帝国の姿を想起させます。最後に大きな災厄が国民に降り注ぐことになりはしないか、心配になります。

 

地震調査委員会が三陸沖地震・津波発生の危険性が高まっていると国民に注意と準備を呼び掛けている中、少しでも自己防衛策を講じて頂きたいと考え、非力ながらも、21年前に筆者が書いたブログを再掲することにしました。

 

なお、2011年東日本大震災発災の5,6年前に記したブログですので、大震災の被害者や家族の方にとっては不快に思われる内容もあるかもしれませんが、ご容赦頂きたいと思います。

 

『明治29年三陸大津波の写真である。岩手県気仙郡唐丹村(現釜石市)は旧仙台領。明治29年の大津波では住民2793名中、約8割に当たる2135名が死亡。



慶長16年イスパニア(スペイン)のセバスチャン・ビスカイノは伊達政宗の許しを得て、仙台領東海岸を測量中であった。越喜来湾を経由、吉浜湾で一泊。唐丹湾は吉浜湾の一つ北の湾で「ガスコン」と名付けられた。

旧暦10月28日(西暦1611年12月2日)「(ここ(越喜来)に着く前、住民は男も女も村を捨てて山に逃げゆくを見たり。―中略―この海岸の水難により多数の人命を失いたり。(「ビスカイノ金銀島探検報告」西田耕三 耕風社 1998年刊)」

これまでは南蛮人を一目見ようと住民は海岸に出て来たのが、今回はどうしたことか。しかし、その理由は大津波であったことが、すぐに判明した。ビスカイノらは海上にいたおかげで一命を取り留めたが、追従していた伊達家の船二隻は沈没してしまったという

この地震は三陸地方で強震、推定マグニチュード8.1、津波は午前10時頃から午後2時頃まで繰り返し、伊達領内死者1783名、南部・津軽領内人馬死3000余。宮城県岩沼で津波は阿武隈川を7km遡上した。昭和8年三陸大津波を上まわるものであったと推定されている。』

 

『昭和35年5月21日から23日にかけて、チリで地震が発生、特に23日午前4時15分(日本時間)の4度目の地震は激しいものであったという。数時間後にはハワイに津波が押し寄せ、死者も出ていた。気象庁ではそれらの情報を得ていたが、日本に津波が波及するとは考えず、警報を発令しなかった。日本人はよくよく、危機管理意識の希薄な国民なのだろう。5月24日午前4時30分頃、津波は三陸に到達、大船渡市をはじめ、死者61名を出した。地震を伴わぬ津波があることを人々は知った。遠く南米チリで起きた地震の余波が、対岸とはいえ、太平洋によって隔てられた三陸地方に及ぶとは。(写真は今日の三陸地方 碁石海岸にて 筆者撮影)』

『 岩手県遠野市立博物館では、6月1日より7月31日まで、遠野の起業家にして、自ら県に志願して、明治29年の三陸大海嘯(大津波)の実地調査を、単身行った山奈宗真の企画展が開かれている。

 当時49歳であった宗真は、壊滅的な打撃を受けた岩手の水産業・経済の行く末を案じ、詳細な実地踏査を行った。津波の高さ、地形、被害の実態、更には三陸地方では過去89回の津波があったとして、元亀三年(1572年)以来の溺死者数まで調査している。
 
 県知事を動かし、県から依嘱を受ける形で実現した一市井人の精密な調査結果は、残念なことにほとんど活用されなかったという。

 山奈の調査結果は現在、国立国会図書館、岩手県大船渡市立博物館、同遠野市立博物館に収められているという。企画展では東北大学が作成した津波の3Dシュミレーション画像も供覧されている。
  
 山奈の功績が明治三陸大海嘯(大津波)の記憶を現在にとどめ、津波防災対策に寄与することを期待したい。
 
 写真は山奈宗真展のポスター(遠野市立博物館)』

 

『 さて、明治29年の三陸大津波の記憶も、まだ薄らいでいない昭和8年3月3日午前2時31分、再び三陸地方を大津波が襲った。死者1400名余り、行方不明1262名と、またもや甚大な被害を蒙った。釜石付近が最も被害が大きく、気仙郡内では唐丹(とに)綾里(りょうり)、吉浜、広田、越喜来(おきらい)赤崎などの被害が大きかった。(参考文献「広田漁業史」昭和51年発行 岩手日日新聞社)
 津波調査に当った東北大学助教授林喬博士の報告によると、岩手県北部の久慈から県南広田にいたる港湾の地質は古生層で岩質が硬く、港湾が深く両壁は直立した岩壁で津波の被害が大きくなる。一方、青森、宮城の海岸の地層は中生代で岩質は軟らかいため、津波の被害は岩手に比較し少ないという。(参考文献「岩手近代百年史」前掲)
 この後さらに、昭和35年、いわゆるチリ津波が三陸を襲う。
 近世以来の歴史を顧みれば、百年に二度ないし三度、三陸地方は津波被害に遭っている。近い将来、津波に襲われる可能性が高いということを、住民は感覚的に理解している。
しかし、津波に襲われる地域の自然は何故こうも、美しいのであろうか。(写真:田野畑村 鵜の巣断崖 岩手県観光協会HPより借用)』

 

 

『引用をつづける。(「岩手近代百年史」に引用された新渡戸仙岳著「三陸大津波」)「すると間もなく、万雷の一時に激するような音響と共に、二三十米にもあらんとおぼしき黒山のような波浪が耳をつんざくばかりに怒号して、天をつき、地を捲き、猛り来り、狂い去り、一瞬の間に沿海一帯七十里の人畜・家庭・船舶ありとあるものすべてのものを一なめしに払ってしまった。 ―中略― 此の日はあたかも陰暦五月五日に当っているので、奉公に出ているものや、出張している者などは、皆懐かしい家庭に帰ってきて、一家団欒し、端午の祝いの膳に就いたばかりの時のでき事なのである。―中略―
斯くて翌日までに大小数十回の波が襲来して来たが、第一回から第三回までが最も大波であった。波の高さは場所によって一定しないが、大概十五mから二十四mに達した。」
(「岩手近代百年史」ところがこの大津波を県庁は全く知らないでいた。翌日の午前六時、青森県庁の急電によって初めて知ったことからも、三陸東海岸が、如何に徹底的な打撃ををうけ、通信施設も根こそぎもっていかれたことを示している。―略―)

阪神淡路大震災でも余りに被害が大きく、当時十分に普及していなかった携帯電話から、ある国会議員が連絡したにもかかわらず、公式に連絡がないと、政府は被災状況を軽視、自衛隊の出動命令等が遅れるといった大きな誤ちをおかし、犠牲者数の増大に繋がったのは、記憶に新しい。』

 

 

『政府の中央防災会議専門調査会は津波に関する推計結果を発表し、警鐘を鳴らした。
三陸地方に関わりのある人間としては無関心でいられない。少しばかり、文献を当たってみたので、ここに引用する。長文ではあるが、貴重な記録と考えるので、あえて引用したい。出典は「岩手近代百年史」P310~314 昭和49年発行 著者:森嘉兵衛 監修:岩手県 発行所:熊谷出版(盛岡市上田1-6-49)
「三陸大海嘯」
 三陸漁村の宿命的災害というべきものに津波がある。この地方は近世だけでも、慶長十六年(1611)、…延宝五年(1677)、…元禄十二年(1699)、…宝暦元年(1751)、…寛政五年(1793)
安政三年(1856)、…の六回起っている。このうち慶長十六年と安政三年が最も被害が大きかった。しかるに近代に入って明治二十九年(1896)六月十五日午後七時三陸東海岸全海域にわたって強力な地震と共に大津波に襲われ、一瞬のうちに大災害を受けることとなった。新渡戸(にとべ)仙岳氏の「三陸津波史」はこの惨事を次のように伝えている。
「明治廿九年六月十五日午後七時頃地震があった。強くはなかったが振動時間は長かった。十数分過ぎてからまた微震があって、それから数回強震があった。此の地震の起るころ東海岸は潮の引くべき時ではないのに引潮があった。それから又さして来た。引いてはさし、さしては引いてついに余程増水したけれども、人の注意を促すほどの変動ではなかった。此の時海も陸も蒙々として雨に煙っていた。しばらくたって八時二十分頃になると沖の方に当って轟然と大砲のような響きが聞えた、人々は海上で軍艦の演習でもしているだろう位に思っていて心にとめる者がなかった。…」
続く…。(写真は岩手県観光協会HPより借用 北山崎)』

 

 

筆者が三陸沖地震津波について、Gooブログに初めて書いたのが2005年6月のことであった。

その頃、筆者は、今となっては”奇跡の一本松”で良く知られるようになった岩手県陸前高田市を頻繁に訪れていたので、自然と三陸地方における津波の歴史を調べるようになった。

 

久しぶりに振り返ってみたので、ここに再掲しようと思う。

 

2005年当時に書いたものなので、2011年3月11日の東日本大震災で被災された方々にとっては失礼にあたる表現も含まれていたかもしれないが、おゆるしいただきたい。

下の写真は2005年当時、筆者が携帯で撮った高田松原の風景。(スマホのなかった時代なので、画像は明瞭でない。)

奥に見える小高い山は展望台のある箱根山だと思う。

 

『やはり、近い将来(20年以内に99%の確率で)三陸に津波が来るらしい。津波の高さは岩手県大船渡市で22メートルと予想されているが、明治三陸大津波では、狭い湾内において50メートルを超えたところもあるとか。三陸の地形は、ご存知、リアス式であるが、眼前に迫る山々の谷間を津波は狂ったように遡るのだとか。
明治三陸大津波の際は、カキで有名な広田半島や田老、綾里などの被害は甚大だったという。明治時代のこの地方の人口の少なさを考えると明治三陸大津波の2万2千人という死者数は空前絶後と言ってよい。陸前高田に泊まりで初出張したその日、ママチャリと懐中電灯を買いにゆき、防災地図と周囲の地形を眺めてみた。周囲に高台と呼べる場所はない。ママチャリではとても助かりそうに無いが、無いよりはよいか。』

増長天とは天部の仏神の一。

四天王の一。

サンスクリット名:ヴィルーダカ一

「発芽し始めた穀物」「成長し増大した者」を意味し、超人的な成長力で仏教を保護します。

世界の中心に咲き誇る須弥山(J)の南方(T)を守ります。

 

御本尊に向かって、右前に配置されるのが一般的です。

下は奈良を代表する増長天像です。