昨日は授業がなかったため、家でゆっくり過ごした。
紅茶を飲みながらクロスワードを解いていた時、倉庫を片付けていた母がアルバムを持ってきた。
私が生まれた時から小学校2~3年の頃まで、分厚いアルバムが10冊以上。
惜しみなく撮られた写真の数々。
初めて歩いた時、七五三、動物園や遊園地、海に行った時、小学校の入学式、運動会、雪だるまやかまくらを作った時··········。
覚えていない写真もたくさんあったが、小さかった自分の成長を追って見られるのは楽しかった。
今の顔とさほど変わらない、おてんばで無邪気な女の子は、アルバムの中で満面の笑みを浮かべていた。
私と6つ離れた弟のアルバムは、私のものほど数は多くはないが、大切に保管されていた。
ベビーカーに乗ったぽちゃっとした弟を、不思議そうな目で見つめている私。
急に、苦しく物悲しい感覚に襲われた。
そして、ふと思い出す。
私には、6つ離れた弟の下にもう1人、妹か弟になるはずだったきょうだいがいた。
今でも覚えている、小学3年生の冬。
隣町の病院に行った母を父が迎えに行くというので、付いて行った。
まだ小さな弟の面倒は、家にいる祖母に任せた。
帰りはどこかで食べていこうという話になり、久しぶりに親子3人で外食。
いつも弟に付きっきりで世話をしている母の愛情を、今日だけ独り占めできたようで嬉しかった。
家に帰る途中の車内。
母が小さな声で、でも嬉しそうに言った。
「あみ、また赤ちゃんが生まれるよ
」
私は大喜び。
弟という存在の可愛さを噛み締めていたので、赤ちゃんなら何人でも欲しいと思った。
「やったあ!!!男の子?女の子?」
「まだ分からないよ。」
「そうなんだ!
4年生になったらみんなに言おう
私2人のお姉ちゃんになるんだね✨」
その晩は、ドキドキして眠れなかった。
しかし、私の期待も、両親の喜びも、叶えられることはなかった。
母の妊娠を知ってから数ヶ月後、母の身体の調子が悪くなってきた。
何回か病院に行き、ある時、とても悲しそうな顔をして帰ってきた。
祖母は親戚に電話していた。
内容が気になったので、受話器に近寄って話を聞いてみた。
「そうなの··········。いたましかったねぇ(この辺りの方言で、もったいなかったという意味)。
でも今は、〇〇(母の名前)の健康を第一にね。
落ち込まないように。」
だいたい、こんな内容だったと思う。
母の身に起きたことを何となく察した私だったが、母に直接聞かずにはいられなかった。
「赤ちゃん、死んじゃったの?」
「うん·····。心配させちゃったね。
よく聞いてね。あみの言う通り、お母さんのお腹の中で、赤ちゃん死んじゃったの。
だから産めないんだ。ごめんね··········。」
母の目には、涙が浮かんでいた。
一番つらいのは母なのに、酷な事を言わせてしまったと思った。
同時に、私も大きなショックを受けた。
流産という言葉を知ったのは、それから何年も後の事だった。
当時、弟は3歳か4歳。
彼は多分この事を知らない。中2になった今でも。
我が家に生まれるはずだった小さな命。
今も仏壇には、3~4ヶ月頃のエコー写真が飾られている。
普通に生まれて育っていれば、10歳か11歳。
小学校4~5年生になっていたはずだ。
遊んでばかりで宿題が終わらず、お姉ちゃん手伝って!と頼んでくるような、素直で明るい子に育っていただろうか。
どれだけ生きたかっただろうな、お父さんお母さんの顔を見たかっただろうな、と思うと、いつも胸が締め付けられる。
彼(彼女)は生を受ける事が出来なかったけれど、私がお姉ちゃんであることは変わらない。
私にできることは、生きたくても生きられなかった、産まれることができなかったきょうだいの分の命を、一生懸命に生きること。
その子が見たかったもの、やりたかったことを、弟と全力で楽しむこと。
人は、自分のためだけでなく、誰かのためにも生きている。生かされている。
東日本大震災を経験し、今回の台風で被災された地域の方々の辛さを知ったときに思った。
自分以外の誰かの想いを背負うことで、人は強くなれる。どんなことも乗り越えられる。
もし私が結婚して子供を産む時は、私の元に来てね。
その時に会おうね、と約束している。
お姉ちゃん、頑張るから。
いつも見守ってくれてありがとう。
空にいるあの子に、そう伝えたい。
温かな涙が頬を流れた、肌寒い夜のひとりごと
