![](https://stat.ameba.jp/user_images/20210806/08/amiproject2014/5c/c7/j/o1002062214982860366.jpg?caw=800)
❑私達が知る赤影の世界。
それは仮面を纏った坂口を眺める前提だった。
❑坂口祐三郎を大スターに押し上げた赤影。
悪役の名優も勿論揃っている。
❑天津敏さんはプロデューサー平山亨さんとの話しで脚本家の伊上勝さんに依頼の条件として最初のキャスティングだったと言う。
❑そして金目教、卍党の頭領を続けた天津敏さんと異なりほぼ3部作出演の悪役名優がいる。
様々な悪役を時代劇、現代劇と演じ特に赤影の魔風雷丸では和製ジョーカーレベルのエッジの効いたキャラを演じる。
根来篇では夕里大名を演じ赤影の悪役に名を残す怪演振りを果たした。
汐路章さん実は映画業界の物語映画で1983年に大ヒットした『蒲田行進曲』主役のヤスのモデルでもある。
汐路章さんがこの世を去ったのは1994年10月29日。
享年66歳。
丁度坂口さんの宣材写真とプロモーション動画の撮影日に訃報は届いた。
個人的に汐路章さんに坂口さんと共演で赤影絡みの企画を考えてた時期。
坂口さんも驚きを隠せずと言う所である。
▓さて汐路章さんの話しに戻すと撮影に対して死を覚悟した御本人が奥さんに郵便局の簡易保険を掛ける実話を原作のつかこうへいさんが『蒲田行進曲』へとまとめ上げ舞台、小説、映画、テレビドラマへと発展する。
豪華キャストの中に汐路章さんはじめ赤影の大部屋俳優も出演している。
私も当時夢中になりビデオを擦り切れる迄観た名作である。
この裏話はまたの機会に。
▓そして赤影の主演の坂口祐三郎、彼との約束を果たす為、
今後は…
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彼しか知らない又知る事の無かった仮面から私達を覗いていた彼側の世界を…
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20210416/14/amiproject2014/2f/76/j/o0863081314927228613.jpg?caw=800)
これからは懸命に伝えていくべきと改めて感じる。
赤影放送当時の1967年昭和42年の時点で映画会社はテレビの出現に対抗する事無く苦戦を強いられていた。
シネコンは勿論無く、各家庭にようやく白黒テレビが進出した頃である。
■赤影公式第1話■
当時、東映は得意の時代劇が衰退の一途を辿り他社も同じく斜陽の波にのまれ出していたのだ。
今では当たり前の広告付き民放各局もスポンサー探しに奔走するものの、テレビの影響力が未知数と言う事もあったが東京オリンピック(1964)から広告予算の拡大はリアルタイムにテレビでオリンピック観賞が出来る事であった。
一方の映画会社は二本立ての番組編成を作り量産するものの、作品のクオリティーが落ち出すタイミングにテレビが瞬時放送と自宅、更に無料放送が顧客開拓に成功する。
カラーテレビは来るカラー放送化を睨んだ三洋電機が大型予算を投じ日本初のカラーテレビ時代劇/赤影を制作する事になった。
そのカラーテレビの普及に貢献したのが赤影を演じた坂口祐三郎。
赤影は大ヒット、再放送も続き後のカラーテレビ時代劇、更には特撮作品の放送局への供給量が増産される事になったのだ。
❑今思うと彼とは、水を得た魚の様に本当に良く話したものである。
彼のファンは羨ましいとしか言わないが、そんな単純では無く彼の人生に寄り添う話しが中心になった。
この経験は私を色々な面で成長させる。
彼の生き様、マインドを親子世代の差がある私が共有する不思議な話しである。
こう言う貴重な経験を私から感じる若い世代へ伝えていこうと思う。
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![](https://stat.ameba.jp/user_images/20220920/05/amiproject2014/35/1c/p/o1060099215177129817.png?caw=800)
▓今、思えば坂口祐三郎の赤影の使命それこそが彼の願いでは無いかと信じている。