私と坂口祐三郎/赤影と時代劇
子どものころ、夕暮れの気配が部屋に差し込む時間になると、私は自然とテレビの前に座っていた。

白黒の記憶の奥から立ち上がってくるのは、疾風のように現れ、影のように去る忍者――赤影の姿だ。
鮮やかな仮面と、どこか人間離れした静けさ。
坂口祐三郎が演じたその存在は、単なるヒーローではなく、私にとって「時代劇」という世界への入口だった。

武士道の倫理、庶民の生活、そして時代の空気そのものが画面に凝縮されている。
赤影は忍者でありながら、どこか騎士のような気高さを帯びていた。
敵を倒すためだけでなく、守るべきもののために動く。


その姿勢が、幼い私に「強さとは何か」を静かに問いかけていたのだと思う。
坂口祐三郎の演技には、誇張と抑制が同時に存在していた。
派手なアクションの中にも、身体の重心の置き方や視線の運び方に無駄がない。
現代の映像技術に比べれば素朴な特撮であっても、彼の存在感が画面を成立させていた。
演者の身体性が物語の説得力を支えていた時代――それもまた時代劇の本質の一つだろう。
大人になった今、改めて赤影を思い出すと、そこには懐古だけではない価値があると感じる。


善と悪の境界が曖昧になりがちな現代において、時代劇は倫理の座標軸を提示してくれる。
坂口祐三郎の赤影は、迷いながらも信念を手放さない存在として、今も記憶の中で立ち続けている。
私にとって赤影とは、過去のテレビ番組ではない。
時代劇という文化の精神を象徴する、ひとつの原風景なのである。
