CROWN PLUS lesson2

自分の部屋で、トマス・ジェファーソンは窓のそばに腰掛け、自分がすることに同意したすごい仕事について考え始めていました。「私は、そのような重要な文書を書くのにふさわしい男なのだろうか。」と彼は思いました。
 こんにちでは、われわれはみんなトマス・ジェファーソンについて知っています。彼はアメリカの最初の偉大な思想家の1人でした。作家、発明家、政治家そして建築家として、彼は身の回りで形成されつつあった科学や政府に関する新しい考え方を探求したのです。
 彼がアメリカの大統領になったことは、皆知っています。そして現在、ほとんどの人が彼が独立宣言を書いたことを知っています。しかし、彼が人生で最大の難問を目の前にして自分の部屋で1人で座っていたとき、この若者がその日の午後どのように感じていたか、私たちはわざわざ考えようとすることは滅多にないのです。
 議会は、トマス・ジェファーソンに独立宣言を書くために2週間与えました。彼らは、今後アメリカ人は決してイギリスの法律に従わないということを彼に明言してほしかったのです。この文書で、植民地は自らの独立を宣言することになっていたのです。アメリカ人は自らを統治することになるのです。
 これだけでも大変な仕事でした。しかしトマスは、自分に対してもっと難しい目標を課したのです。彼は、アメリカが自由になると単に宣言するだけでは、充分ではないと感じていました。彼は、新しい国を導く新たな考え、つまりアメリカ人だけでなくすべての人が自由の権利を持っているという考えを説明したかったのです。
 トマスは、ウィリアムズバーグで学生だったときに、個人の自由の概念をはじめて学んだのです。彼は、万人が持っているいくつかの権利があるということを学んだのです。生きる権利、自分で選択できる権利、他人を傷つけない限り望むことを自由にする権利などです。現在私たちはこのような考え方を当然と考えています。しかしそれらは、1770年代かなり新しいものだったのです。すべての人がそれらを良いと思ったわけではありませんでした。あるいは、それらについて大して考えることさえしなかったのです。しかしトマス・ジェファーソンは考えたのです。先生たちは、トマスが最も思慮深い学生だと言ったのです。
 アメリカを治めるイギリスの支配者が、入植者たちに個人の基本的な権利を与えていないということをトマスは知っていました。アメリカ人たちは、自らを統治すること、自分たちで税金を課すこと、あるいは自分たちを守ることが許されていませんでした。毎年、このような考えをめぐるイギリスと植民地の論争がますます深刻になりました。
 アメリカ人は、自分たちの法律をつくりたいと思いました。あるいは、少なくとも自分たちを支配するイギリス政府で何らかの発言権を持ちたいと思ったのです。国王のジョージ3世は、その可能性さえ考えようとしませんでした。入植者たちは、自由のために戦わなければならないでしょう。今や、アメリカが独立を目指して最初の、そしてとても大胆な1歩を踏み出すのは、バージニア植民地のトマス・ジェファーソンの肩にかかっていたのです。
 トマスが日に照らされたフィラデルフィアの街を座って窓から眺めていたとき、彼の考えはまとまりませんでした。彼は宣言文を書くことに集中しようとしました。しかし、家族に対する心配事が彼に気をそらしたのです。彼は、遥か遠いバージニアにいる愛しい妻のマーサのことをあれこれ考えました。彼女はとても具合が悪く、家族からの手紙が彼のもとに届くのに、1週間かあるいはそれ以上かかったのです。彼女は回復したのだろうか。彼女は悪くなったのだろうか。マーサについてあれこれ考えると、彼はほとんど気が狂いそうになりました。トマスはまた母のことも考えていました。彼女は3ヶ月ほど前に亡くなったばかりでした。彼は、母が亡くなったことで悲しみで胸がいっぱいでした。
 トマスはペンを下に置き、椅子に深くもたれました。外では通りは人でいっぱいでした。男たちは肩で材木を運んでいます。女性は日光から顔を守るためにフリルの付いた傘を差して散歩しています。汚い顔をした子供たちが、市場を駆け回っています。
 トマス・ジェファーソンは、緑豊かなバージニアの田舎で過ごした少年時代を思い出しました。少年の頃、彼が荒野のまさにはずれで暮らしていたとき、人生はどんなに違っていたことでしょうか。とんでもない少年時代の夢においても、成り行き上自分が重大な時を迎えるとは彼はかつて想像したことがあったでしょうか。

 翌朝トマスは仕事の用意をしました。彼は特別につくった書き物机を組み立てました。彼はいつもこれを持ち歩いていました。それは閉まっているときは本のように見えました。しかし、天板は開いて持ち上がり、机の表になったのです。中には、ペンやインク、砂の入った引き出しがありました。ペンはガチョウの羽でできていました。人々はペンの先をインクに浸して書いたのです。インクは乾くのに時間がかかったので、砂が余分のインクを吸うように、書き終わったときに紙の上に砂をかけなければならなかったのです。
 トマスは立ったまま書くのが好きでした。そのほうがよく考えられる、と彼は言ったのです。そこで彼は、小さな机に向かって立ち、ペンやインクを整え、すぐそばに砂の入った小さな箱を置いたのです。それから彼は1枚の紙を取り出し、机の上に平らに伸ばしました。
 彼は今朝は気分が良かったのです。彼は自分が書きたいことを知っていました。そして、自分にはそれができると知っていました。彼は、かつて父親が荒野を探検しているときの冒険について話してくれた物語を思い出しました。彼は今まさに、冒険に乗り出そうとしていたのです。実際、国中がそうだったのです。
 彼はペンをインクに浸し書き始めました。
 しばらくして、彼は書くのをやめてこれまで書いたものを読み返しました。そして、箱から砂を取り出し、紙の上にまいたのです。彼はしばらくの間そのままにしておいて、それから砂を吹き飛ばしました。
 ここまではうまくいっている。彼は満足していました。宣言文は力強いものでなければならない。しかしまた、感動的で美しいものでなければならない。表現は人々を勇気付けるものでなければならない。トマスは、宣言文が、本にファイルされ、忘れられてしまう単なる公文書以上のものであってほしいと願っていました。彼は、人々が長い間忘れないようなものを書きたかったのです。しかも、アメリカ人のためだけでなく、万人のために書かれなければならないのです。
 そこで彼は、アメリカで起きていることはどこでも起こりうるということを、まず初めに書いたのです。それから、彼はアメリカの状況に移り、人々の権利、つまり万人が持つ資格のある基本的な人権が守られていないのでアメリカは独立しなければならない、と述べたのです。
 トマス・ジェファーソンは、万人が平等であり、誰でも他の人よりもよく扱われるべきではない、ということを他の何よりも強く信じていたのです。そして、奪い取ることのできないいくつかの権利があったのです。当然のことながら、誰でも生きる権利があったのです。しかし、それが全てではありませんでした。人にはまた、自由の権利があったのです。つまり、自分の行動が第三者の自由を損なわない限り、自由に自分が望むことを考え、行う権利なのです。最後に、人々には幸福になる権利と、自分を幸福にすることを行う権利があったのです。
 このような基本的な人権を守るにはたった1つの手段しかない、とジェファーソンは考えました。政府は国民から権力を得るべきであって、その逆であってはならないのです。そこで彼は、アメリカ人はイギリスから自由になるだけでなく、国民が自ら責任を負うようにするために政府を樹立するつもりである、ということを力強く宣言したのです。
 ジェファーソンの独立宣言書は今や、政府についての新しい概念としてだけでなく、人間個人についての新しい概念として世界中で受け入れられているのです。

西暦79年8月の夏の日のことだった。地味なチュニックを着た若い奴隷の少女は暑さと不快を感じていた。ポンペイの郊外にある壮麗な邸宅に住んでいた裕福なローマの女性である彼女の女主人は、彼女に町の反対側に緊急の使いに行くように命令したのだった。その子はお使いをすることに慣れていた。そして、狭い道に通じるすべての近道を知っていたのだった。おそらく、彼女は、急げば、広場を散歩したり、店を覗いたり、泉から冷たい水を飲んだりする時間があるだろうと思ったのだ。
突然、耳をつんざく様な爆発が起こった。そして、その少女は危うく地面に投げ出されるところだった。彼女が、近くの壁にしがみついた時、いつもは町を見下ろしているように見える火山のヴェスヴィオス山が、ぼんやり姿を現していくのが見えた。山の上には巨大で汚い白い雲があり、彼女の周りにいるすべての人は、恐怖で叫んだり、かなきり声を上げていた。
雲は太陽を横切るように漂い、町を夜のように暗くした。そのときまでにはもう、その奴隷の少女は、女主人のことも、お使いのことも、忘れてしまったのだ。外にある通りで閉じ込められた何百人もの他の人のように、彼女が唯一考えたことは、自分自身を守ることだった。彼女が振り返り、走り出したとき、空は灼熱の小石を降らせたのだ。彼女のそばに、一人の男が落ちてきた岩に当たって意識を失い、地面に倒れこんだ。その時、彼女はまるで、渦巻く吹雪の中を懸命に進んでいるかのようだった。それは、彼女が、ヴェスヴィオス山の上に垂れ込めていたのを見た、あの息の詰まりそうな、焼けた灰の死をもたらす雲が、今、町の上に降りかかってきているのであった。火山の有毒な煙霧が、肺と目を焼き、少女は自分ができるただひとつのことをしたのだ。彼女は地面に倒れこんだ。そして、鼻と口を服で覆ったのだ。数分以内で、彼女の生命のなくなった体は、灰で覆われたのだ。ポンペイの町全体は、彼女とともに埋もれてしまったのだ・・・。
今日では、ポンペイのような繁栄した賑やかな都市が、火山のふもとに作られることがあるなどとは、信じられないように思えるのだ。しかし、ポンペイは、青い空、穏やかで暖かい気候、きらめく海で有名な、ナポリ湾に望む、美しいカンパニア州にあったのだ。人々は、そこに住むことをとても切望していたので、火山の側でさえも、農場やヴィラがたくさんあったのだ。それらを所有していた金持ちの家族は、火山を高価な不動産の1つとして見なしていたのだろう。ヴェスヴィオス山は、何百年もの間、ごろごろ鳴ることさえしなかった。なので、誰もが、それを休火山だと思っていた。
62年に、ポンペイは、激しい地震に揺さぶられて、街の大部分は破壊された。今日では、その地震は、ヴェスヴィオス山が、目覚めつつある兆候だと思っている。しかしポンペイの人たちは、その地震が、人々は立ち去りなさいと言う神からの命令であったということを知るすべはなかったのだ。彼らは、瓦礫を片付けただけで、町を再建し始めた。17年後、火山が噴火したとき、建物の中には、なおも修復中のものもあったのだ。
ヴェスヴィオス山は、79年8月24日昼ごろに噴火した。ポンペイと近隣の町に住む人にとって、それは彼らの生活を、台無しにするような災害だったのだ。彼らの持っていたすべてのもののほとんどは、失われた。後に、何人かの人々は、家財を救い出そうとしたが、地震と噴火の後で、彼らの大部分はただ、意気消沈しただけだった。生き残った市民たちは、ネオポリス(現在のナポリ)のすぐ近くに家を与えられた。その町を再建するという皇帝の約束は、都合よく忘れられてしまった。ポンペイは見捨てられ、町を覆っていた火山灰は、そのまま固まって岩になったのだ。
何世紀もの間、ポンペイの埋もれた町は眠っていた。そのあと、1709年に、宝探しの人たちは、ヘルクラネウムの近くを発掘し始めた。これらの人は、実際は考古学者の人ではなかった。彼らは後に、ポンペイの発掘に財産支援をしたカルロス3世のような裕福なコレクターに売ることができる価値のある遺物に、興味があっただけだ。しかし彼らの仕事は、その火山地帯に、世の中の注意を引いたのだった。ヘルクラネウムの発掘が、困難になったとき、その上に現代の都市が建てられたので、宝探しの人たちは、自然と、自分たちの努力を、地元の人がラ・チビタと呼ぶ小山に向けたのだ。
ほぼ1700年後、ポンペイは再び発見されたのだ。幸運にも、必ずしもすべての人が宝物を見つけたとは限らないのだ。宝探しの人たちの、発見の噂が広まるにつれて、ヨーロッパ中の学者たちは、ポンペイがローマ帝国における日常生活について、彼らに教えることができるものに興味を持つようになった。その次の一世紀をかけて、考古学者のチームは徐々に、その町を発掘した。そして最後の恐ろしい日に、住民がしていたことの詳細をつなぎ合わせたのだった。
ヴェスヴィオス山はあまりに思いがけなく噴火したので、人々は完全に不意を付かれたのだった。彼らは、毎日の仕事、買い物、友人や親類を尋ねること、家事をすること、昼食を食べることさえ、精を出していた。大急ぎで逃げようとして、住人たちは自分たちがしていたことを、ただそのままにして、自分たちの家財道具をほとんど置いて、走り出したのだ。これが、考古学者たちが、その遺跡がとてもわくわくすることに、気がつく理由なのだ。ポンペイの家や町は、個人の所有物、例えば、家具、鏡、化粧品の瓶、装飾品、そしてパピルスの巻物という形での古代の本、で満ち溢れていた。食べ物でさえ見つかった。その町を発掘している考古学者たちは、81個の半分焼けたパンを、パン屋のオーブンの中で、完全に保存された状態で、発掘されたのだ。
ポンペイは、ものすごく大きい町ではなかった。しかしそれは多種多様の施設を持っていたのだった。公共広場、店がある主要な商業地区、人々が神々にいけにえをささげる神殿、男女兼用の公共浴場、そして劇場。その町の東の端には、遣唐使が、ライオンや像などの野生動物、そして時にはお互いが、死ぬまで戦った円形競技場があったのだ。新聞が存在する前のこの頃、建物の壁は公示を書くために使われていた。例えば、熊との戦いが地域の円形競技場で行われる予定であること、あるいは、投票者たちは来る選挙で、ウェティウス・フィルムスか、ユリウス・ポビリウスを、選ばなければならなかった。その壁は落書きで覆われてもいたのだった。何百もの下品な冗談と、いたずら書きが、ポンペイのいたるところで、ポルトゥムヌスは、アンフィアンドラが好きだとか、ヤヌアリウスは、ウェネリアが好きだ、のように噂話の様に見つかるのだ。
ある落書きを書いたものが少しの詩を書いた。
―壁よ、お前が、ぐしゃっとつぶれないのは不思議だ、こんなにものすごい戯言の重みに、耐えなければならないのに―
しかしながら、おそらく、ポンペイで最も目立った発見といえば、その住民たちである。彼らのうちのおよそ90%が、幸運にも逃げ出すことができた。亡くなった人のほとんどは、地下室や家の中にとどまって、その災害を、じっと座ってやり過ごそうとした人たちであった。(一人の男は刑務所に入れられて、忘れられていたためになくなった。)19世紀に、考古学者のジュゼッペ・フィオレリが遺跡を調査しているとき、町を覆っている岩に、たくさんの不思議なくぼみを見つけたのだ。興味を引かれて、彼は、これらのくぼみのうちの1つに、漆喰を流し込んだ。そして岩を削り取ってみた。彼は驚いたことに、気味の悪い死体の鋳造を見つけたのだ!火山からの灰が死体の周りで固まって岩になり、鋳型を形造ったのだ。死体はその後、腐って消滅したが、姿は岩の中に残り、衣服や顔の特徴、そして髪型さえも示しているのだ。
フィオレリが見つけた人の中には、宝石を集めようとして、長い間とどまっていた金持ちの女性や、幼い女の子を家の中に押し込め、毛布や枕で煙をさえぎろうとしたが無駄であった父親などがいた。他の家では、2人の幼い男の子たちが(おそらく兄弟であろう)お互いに抱き合って亡くなっていたのだった。最もかわいそうな発見の一つは、火山が噴火したときに、飼い主に見捨てられた犬だった。それは、つながれていて、首輪と鎖がまだ首に巻かれた状態で見つけられた。

現代のスポーツは、実に大きなビジネスになっている。
アメリカと日本における野球、南アメリカとヨーロッパにおけるサッカー、世界におけるゴルフ・・・これらは大衆娯楽の形態であり、そして、何十万もの入場料を支払った観客を、スポーツイベントにひきつける。
さらに、何百万もの人が、家でテレビを見る、そして、テレビ局は自然とスポーツにたくさんのお金をかけるのだ。
私たちが、スポーツ選手に巨額の金が支払われることを読むとき、これは氷山の一角に過ぎないという事を忘れがちだ。
私たちがスポーツに使う金に見合うだけのどのような価値をスポーツは与えてくれるのだろうか。そのような金すべてがあれば、もっと明白に役立つものに使うことができるだろう。スポーツの価値を説明する、3つの試みを見てみよう。
ときどきスポーツは人々を融和させると言う。例えば、もし町に野球チームがあれば、その町に住む人々は共通の関心と共通の目的を持つことになる。彼らは、みんなそのチームがうまくやることを望むのだ。多くの国々が、国際的な競技会や試合に参加するとき、共通の関心を持つことにもなる。このようにして、スポーツは人々を結びつけ、お互いを知るようになり、そして、一生懸命働く手助けをするのだ。
もうひとつの考えは、スポーツは私たちによい例を示すということだ。アスリート達は私たちに、もし訓練したり練習したり、そして、健康的な方法で生活すれば、人間の体がいったい何ができるのかを示してくれるのだ。この根拠付けによるとスポーツ選手はよい役割モデルを与えてくれるのだ。
そしてスポーツの娯楽的価値もまた重要だ。先進国に住む人は、以前よりもたくさんの余暇を持つようになり、そしてもし社会が仕事のほかに人々に他の興味を与えなければ、退屈し不幸せな気持ちになるだろう。この見方によれば、スポーツは興奮と楽しみにするものを与えてくれるのだ。それは、一生懸命働いた報酬なのだ。おそらく現代におけるスポーツの人気を説明するこれら3つの方法は、―それらを”内集団””役割モデル””娯楽的見解”と呼ぶことにしよう―一見したところもっともらしく見える。私たちがスポーツに使う時間と金を正当化する、他の方法もまたあるかもしれないが、これら3つのことをもっと詳しく考えてみよう。それらは一見したときと同じくらい本当に明らかなものであろうか。
内集団の見解は確かに正しい―スポーツはまさに内集団を作る―しかしこれはすべてが真実ではない。内集団があるときはいつでも、外集団もまたあるに違いない。もしA町が野球チームを中心にして団結するならば、B町をライバルと感じることもあるのだ。スポーツでA町を結びつければ結び付けるほど、B町と、より分れてしまうことになるのだ。
イギリス人作家のG・Oは、国際的なサッカーの試合は国と国との関係を向上させるという考えを拒絶すると1930年代に書いている。役割モデルの考えも正しい、しかしまた別の見解もある。アスリート達はほとんどの人たちに対して、現実的な役割モデルをあまり与えていないと言えるかもしれない。人口の99%は、アスリートのような身体能力を持っていない。そしてすべての時間を、訓練や練習をして過ごせないのだ。そして役割モデルの考え方が、誤用されることがあるという危険もまた存在する。
第十一回オリンピックはドイツで開催された。そしてアドルフ・ヒトラーは、ドイツのそのときの統率者は自分自身の人種(いわゆるアーリア人)は、他の人種より優れていると信じていたのだった。もしアーリア人の選手がオリンピックでよい成績を残し、彼が正しいことが証明されたならば、彼は喜んだことだろう。彼は黒人のアメリカ人ランナーのジェシー・オーエンズさんが、4つの金メダルを取ったとき激怒したのだった。
同様にして、冷戦中のソビエト諸国は、スポーツで成功することに大きな投資をしたのだった。彼らは、スポーツにおける勝利は、自分たちの社会制度がうまく機能しているということを、証明するだろうと期待した。今日でさえ、私たちはあるランナーによる勝利、例えばそれがたまたまミラノからやってきた女性であるとすると、ミラノは誇れる町であり、そこに住む女性たちは素晴らしいことができる事や、イタリアは世界で重要な国なのだということを、示していると仮定しがちだ。これらのことは、すべて正しいかもしれない(もちろん)、しかし試合に勝つことはそれらを証明するのだろうか。試合に負けることは、反対のことを証明するのだろうか。
だから、私たちに例を示すスポーツの力は、危険なものにもなりうるのだ。それは、悪い例を示すのに使われることがあり、実際は、まったく何の意味もない手本を示すように思えることがある。では、スポーツは社会に役立つという、娯楽的な見解に移ろう。なぜならばそれは、余暇を使い果たすことになるからだ。このことは、本当にスポーツそのものとして、根拠付けているのではない。むしろ、害のない暇つぶしとして根拠付けられている。だから、疑問は、なぜ人々はスポーツが楽しみであることに気づくのか。スポーツとは娯楽のような形態なのだろうか。
人々の中には、一般にスポーツは娯楽のかなり原始的な形態であるのだと感じている人もいるかも知れない。ほとんどのスポーツは、走ること、そして取ること、投げること、打つことのような狩猟的な動作を含んでいる。これらの技術は、何百年あるいは何千年前には役に立っていた。その時人々は、生き残るために、動物を狩猟しなければならなかったからだ。しかしそれらは今の普通の生活にはあまり関係がない。確かに誰かは次のように言うかもしれない。これよりももっと文明的な娯楽の形態を見つけることができますよ。
しかし、もし、人間が依然として、これらの狩猟的本能を持っているなら、そしてもし日常生活でそれらを使ったり表現したりできないのなら、おそらく日ごろの生活において、ほとんど危害を及ぼすことのないそれらのための特別な場所を、見つけることは、とても文明的なことだろう。アリストテレスは、破壊的な感情に対するこの調整されたはけ口が、とても大切であると考えた。そして彼は、それを『カタルシス』と呼んだのだ。
アリストテレスは、どうして人々がギョッとさせるような、そして面白いことが起こる劇を見に行くのか、説明させるためにカタルシスという考えを使ったのだ。彼は、そのような劇を見ることによって、人は、自分自身の破壊的な感情を、少なくともしばらくの間は、焼き払うことができると考えた。おそらく、アリストテレスならば、現代のスポーツのこうした素晴らしい国際競技会を認めたことだろう。
他方では、スポーツを見に行ったり、あるいはテレビで見たりする人たちは、試合の後により穏やかに、そして、平和的な気持ちになるために、見るわけではないのだ。彼らは、競技会の興奮と、勝つかなどうかなとわくわくする気持ち(もし自分たちのチームが勝つとしたら)を、求めていくのだ。彼らは、技術と固い決意が成功をもたらすことができるのを見て、次の3つのこと―技術、固い決意、成功―それを、喜びと熱狂を持ってこたえているのだ。そのことは、他の人生における、もっと複雑な部分で成功というものが、それほどはっきりとは定義されていないところだということに対する、健康的で前向きな教訓ではないだろうか。彼ら自身の技術と固い決意は、新たなもの、そして、元気付けるものになりはしないだろうか。
スポーツに参加する事は、私たちにとってよく良い事だと言われる。スポーツを見ることは、私たちに教えてくれる何かがあるかもしれないという考えは、それほど一般的なものではないが、おそらく同じように正しいことなのだろう。