ずっとずっと読もうと思いながら、なかなか手に取ろうという気になれなかった太宰治の『人間失格』を読みました。



こういった文学小説は論評したくなるけども、誰しもが語り尽くせるものでも理解しきれるものでもなく、時には作者の意図さえも凌駕する解釈が生まれることもあるので、(それは本の存在意義として認められるけれども)自分の感じたことに、ただその感情に正直でいて逃さずにいようと思います。


ただ、最近の私は今まで以上に『人間』というものの存在意義を深く考えていて、そして『自己』の厄介さに葛藤をしていました。
そんなタイミングで、偶然ながら今の私が手にとったこの一冊は、あまりにも深く重く響いたのでした。
多分、中学生や高校生の自分にはこの作品は嫌な残り方しかしなかったでしょうね。かと言って、今の私が適齢期かといえば甚だ疑問ですが、それでも一昨日の私には、この本を手に取ったことは偶然とは言い切れないくらいの出来事だと思えたのです。



色々と、本当に色々な思考が頭をめぐったけれど、最終的には『とにかく生きよう』と。

人間は人間であり続けるしかないのだから、在りのまま、生かされたまま、ね。




多分、人畜無害で有益な人間こそ『人間』としての資格が認められるなら、人間失格な人間はこのご時世、ごまんといますよ。


そうじゃないもの。


どんな人間も『人間』として生まれたら、人間として生きる資格を持ってる。


そこに付加価値やらなんやらつけて、人間たるための『資格』を決定づけるのも『人間』の感性一つ。


借金にまみれ、色に溺れ、薬漬けになっても、それが『人間らしい』ならば人間であることを否定することは誰にも出来ないよね。

決して良い人間性とは言えないかもしれないけど、偽り取り繕った人間性も己に正直過ぎた人間性も、どちらも罪なら、みんな罪を背負っているし、生きていることすら罰なのかもしれない。
これは個人観念的なものだけど。


作中、『罪と罰』は対義語か同義語かというやり取りがあったけど、社会通念上で問われる罪や罰と個人的観点から問う罪や罰は、必ずしも同一線上に並べることは出来ない。




これって、実はすごく奥深いことだと思うわけですよ。



犯罪者の心理はわからない。




なんてよく言うけど、咎めるものが存在した時点で『犯罪』は成立する。

これ、自分で自分を責めたら他の誰もが責めなくても、罪は成立しちゃうってことにもなります。




社会的な道徳を犯したら、やっぱり責められるべきなんだろうけど、自分に厳しすぎて自己嫌悪になるのはやっぱり損な気がするなぁ。。。自分以外の人は咎めないかもしれないわけで。



誰かに咎められるから罪を認めるということは全てに当てはまるものではないから、たまには自分で自分を許して認めてあげることも出来ないと、人間として生きていくには難しいなぁとしみじみ思ったのでした。




きっと、適切な罰なんて自分でも、他の誰からも与えられないよ。


捉え方一つだもん。
罪も罰も時には救済にもなることもあるしね。







とりあえず書き留めたかったことの10分の1でした。