アメリカンドリームを掴んだ不幸な女の生涯!
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1926年6月1日、ノーマ・ジーン・モーテンセンこと、後のマリリン・モンローが誕生した。彼女が生まれた時には、父親はおらず母子家庭で育った。彼女の事を語る上で避けては通れないのが、少女時代である。母親は精神病を患っており、入院する事が多かった。その為彼女は養子に引き取られる事になったのだが、そこで性的虐待を受ける不遇な少女時代を過ごすことになった。
そんな彼女にも一時の幸せが訪れる。16才になる頃、母親の家の近所に住むジム・ドバディにプロポーズされ、結婚するのである。ちょうど同時期にモデル事務所からスカウトを受けた彼女は、モデルとしての活動を始めた。しかし夫は彼女がモデルになる事に賛成しなかった。結局、2人は結婚から4年で離婚することになった。
モデル活動をしながら、『女優』に憧れるようになったマリリンは1947年に『嵐の園』という映画に端役でデビューを果たす。その後も女優として活躍するようになった彼女だが、なかなか主演を飾る事はなかった。それでも彼女はヌードモデルを続けながら、演技の勉強に励んだ。
そして1951年、この年彼女は人生の転機を迎える。エージェントのジョニー・ハイドの尽力で『アスファルト・ジャングル』、『イヴの総て』に出演。少しづつではあるが、観客や映画製作者のハートを掴む演技をするようになった。
そして、ついに1952年には『ノックは無用』で初主演。続く『紳士は金髪美女がお好き』『七年目の浮気』などに出演した映画が、大ヒットを飛ばし一躍トップスターの仲間入りを果たしたのである。

トップ女優であるがゆえの幸福と不幸!

1954年2月1日、彼女は元メジャーリーガーのジョー・ディマジオと二度目の結婚。元メジャーリーガーとスターの結婚は注目を集めたが、2人はわずか9ヶ月で離婚する。それから二年後には三度目の結婚をするが、翌年から精神的に不安定な状態に陥り離婚。ちょうど同時期に、かのアメリカ大統領ジョン・F・ケネディとの関係が報道されるようになる。さらには、ジョン・F・ケネディの実弟でもあるロバート・ケネディとの関係も暴露されてしまう。
マリリンは男性関係をマスコミに騒がれるとともに、精神状態を悪化させていくようだった。彼女の出演した映画『荒馬と女』が悪評だったことも後押しし、精神病院へ入院するほどになっていた。そして、彼女の精神状態が回復することはなかった。
1962年、映画『女房は生きていた』の主演に決定するが、
度々撮影をすっぽかすようになり、映画の製作は遅々として進まなかった。その為マリリンに激怒した監督は、彼女を降板させようとした。だが映画会社の20世紀FOXは、『絶対にマリリン・モンローを降板させない』という方針で、監督を降板させ彼女の復帰を心待ちにしていた。だが、それすらも叶わなかった。同年8月5日、彼女は急性バルビツール中毒で死亡。事件当時は映画の製作も進行中で、
ミュージカルの出演も決まっていた。演じる事に生き甲斐を感じていた女優が、果たして自殺するのだろうか?


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