井伊直弼暗殺
水戸藩の思想は両刃の剣で自らも傷つけた
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徳川御三家の水戸藩二代藩主光圀が『大日本史』編纂をはじめ、そこには中国の宋王朝が侵略者の異民族『金』を追い払う大義名分の、朱子学理論を採用し『水戸学』としていた。
幕府も朱子学を御用学問としたが、水戸では宋王朝の忠臣と叛臣の区別を徹底させる朱子学理論を採用し、日本で、幕府を『非正統なる覇者』の叛とし、徳川の藩屏である水戸藩は自らの立場を否定した。
尊皇思想自体は自然の感情で、江戸時代の知識階級にその念のない者はなく、水戸では九代藩主斉昭の時代には『幕府と朝廷の間に弓矢の事があれば、弓矢を捨て京を奉ぜよ』とする言い伝えも生まれた。幕府から『謀反の家筋』と危険視されるが、藩内では幕府派の勢力もあり、根強い内部抗争を繰り返していた。
水戸藩を中心とする大名たちが、幕府が締結した日米修好通商条約は、朝廷の許しがない違勅であると糾弾したことで、政治に対する痛烈な不信任に激怒した大老の井伊直弼は、反対派を弾圧する『安政の大獄』を強行した。薩摩藩主の島津斉彬は、井伊直弼を諌めるために、兵を率いて上京しようとするが、直前に急死する。
多くの処罰者を出した水戸藩は、薩摩藩と共同で井伊直弼襲撃計画を企てたが、薩摩は直前に手を引き、有村次左衛門一人が参加した。
井伊直弼は不穏な動きを察知したが、幕政を預かる者として通常の供回りで登城し、有村が井伊直弼の首を挙げた。尊皇攘夷思想の先頭を走った水戸藩は、その後も内部抗争や事件で、有為な人材が涸れ果て、明治維新の波に乗れなかった。



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