坂本龍馬暗殺
幕府よりも薩摩藩に龍馬を除く理由はある
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慶応3年(1867年)11月15日、京都近江屋新助宅の土蔵に潜伏した坂本龍馬は、母屋の二階に移って中岡慎太郎と会談中の午後6時頃、十津川郷士を名乗る刺客に襲われ、33歳の誕生日に人生を閉じてしまった。
龍馬の工作で薩長同盟は結ばれた。第二次長州征伐の戦闘に参加した事で、
幕府のお尋ね者になって薩摩藩に保護され、運輸通商の会社亀山社中も薩摩藩の資金援助で設立している。
日本を考える龍馬は、盟友武市半平太断罪の張本人の後藤象二郎と意趣を超えて会談、亀山社中を土佐藩海援隊へと移し、後藤に『広ク会談ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ』など五か条の御誓文の下地になる『船中八策』を授けた。その策を将軍慶喜が受け、大政奉還となった。
政権返上で討幕派は武力行使の名目を失い、幕府は消失しても朝廷に政治ができる者がいないことで、慶喜が議会の議長となって、別の徳川支配体制の始りとする妙案であった。
龍馬は佐々木只三郎の率いる京都見廻組に襲われ、下手人は今井信郎とされているのだが、幕府側に龍馬を抹殺する理由は無く、むしろ薩摩側にはあるのだ。ただ、後藤は龍馬から授けられた妙案を、自ら考案したとし、龍馬をお尋ね者のままにしていた可能性が高い。
新政府参加を目論む慶喜に、あくまでも討幕を目的とする西郷隆盛や岩倉具視は、将軍慶喜に官位と旗本領を含む幕府の領地を朝廷に返還せよと『辞官納地』を迫って追い込んだ。それに怒った会津藩を主体とする勢力が京に向かって鳥羽伏見の戦いとなり、幕府は崩壊する。


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