古本屋で見つけた『学びのきほん くらしのための料理学』(土井善晴/NHK出版)を読んだ。
線を引いた箇所はたくさんあったが、中でも印象に残ったところを書いてみようと思う。
著者は中高生に向けて家庭料理の講義をすることがあり、その際、子どもたちから「親の気持ちがわかった」「親に感謝」したいという感想を聞くそうだ。
ところが、「家庭料理がない家だってあります」という感想文を書いてきた子がいたという。
だけど一方で、「朝ごはんを食べてきた人?」と聞くと全員手をあげる。
なぜなら、面倒なことを避けるためだそうだ。
それならばと、ご飯が家にないことを前提に「自分で作るもの」として、ご飯の炊き方や味噌汁の作り方を教え、同じ境遇の子に声をかけて一緒に食べれば友達を幸せにすることができる、居場所を作ることができる、料理するところに家族が生まれると著者は言う。
「うちのおかんは料理が下手で、おかずを作ってくれなかった。ほんまに下手やったんです」と言う友人がいますが、とても活躍されている、人一倍思いやりのある女性です。彼女のお母さんは、下手でも、めんどうがり屋でも、愛情があったことは間違いありません。
料理には、上手とか下手とかは関係ありません。子供にとって、なにより大切なことは、親が一生懸命生活していることです。ヘタクソでも、時間がなくても、ドタバタしても、つらいことがあって泣いても、笑っても、子供たちにご飯を食べさせられたらいいと思います。
『学びのきほん くらしのための料理学』(土井善晴/NHK出版)より引用
私はこの文章を読み、ある記憶が蘇った。
それは小学生の時のこと。我が家は毎日、朝食は山崎の菓子パンだった。
シングルマザーとして働く母は、家で料理をする気になれなかったため、毎日決まって山崎の菓子パンだったのだ。
ところが、その菓子パンを買い忘れてしまったことがあった。
すると母は寝起きの姿のまま、すごい勢いで商店街にあるパン屋さんへサンドイッチを買いに走ったのだ。
すっぴんでボロボロのパジャマと髪を振り乱して走る姿をベランダから見た時、私はとても幸せな気持ちとありがたいなぁという感謝の気持ちが湧いたのだ。
普通、こんなことは当たり前でしょうと思うかもしれない。
だけど、我が家は違った。
母の手料理を食べることもなく、母と過ごす時間もなく、いつも愛されているのかわからない不安と孤独の中で生きていた私にとって、私のために食料を必死に買いに走る姿に愛を感じたのだ。
サンドイッチを買いに行くだけで、子どもがそんな思いになることがある。
ならば、いつも食卓に用意された食事を食べた子どもが何も感じていないわけはない。
必ず心の深い部分に親の愛を感じ取っているはずだ。
著者の一文を読んで、蘇った記憶。
やはり親が用意してくれるご飯は、子どもにとって何より偉大なのだ。
それでは、また。