自分の評価値数を上げるために、そして他講師のそれを下げるために、講師が生徒を饗応するという話を記したが、講師が事務系幹部を饗応するということも勿論あり得ることになる。
自分がどのように思われているかを聞き出すために、また、不満の出にくい良いクラスをまわしてもらうために、多数のコマ数を貰って収入を増やすために、飲みに連れて行く、すし屋へ連れて行く、はては国内線の飛行機でゴルフに連れて行くなどがあったらしい。防衛庁の元幹部に対する供応と同じだ。
事務員は一般会社の事務員と給与ベースが同じだから本部長といってもキキケケ上がりだと年収は一千万には満たなかっただろう。
しかし、浪人生がダブついていた頃は、ちょっとした人気講師で年収一千万、人気絶頂講師は年収千五・六百万というのが普通にいたから、こういう饗応はいとも簡単にできた。
こういう講師の中から「あんたの評価数は無能本部長がいじくっているのだ」とう話を聞いた。そしてその手口まで教えてくれた。饗応先で酒でもまわって得々と喋ったらしい。
「ザケンナヨ」の場で、数値が余りにもおかしいと言ったのに対し、「俺が数値の改ざんをするはずがない。理由がない。俺たちは先生方をいかに盛り立てるかを考える立場にあるのだから」「生徒の目はごまかせない」「あんたは思い上がっている」などと言っていた。
その横でヒラメのようにベッタリと上目使いでへばり付いている「人形」次長、その度に眉間に縦しわを寄せて、深刻そうに相槌を打っていた。
この二人を裁判にかけ、ウソ発見器にでも乗せて「お前たち、やったろ?」とドロを吐かせると面白い結果が出るだろうと思う。
このヒラメ次長、Q大哲学科卒なのだそうだ。「卒業はしたものの就職など何も無かったのでここに来た」とのことで、仕方なく来たわけで、特に教育に情熱を燃やして来たのではない。
みっともないゲジゲジのような口ひげを生やしていたが、その理由は「大方の先生が自分より年上なので、軽く見られないように生やしている」とのことだった。
人の尊敬というものは、第二の誕生を体験してそれを行っているかどうかを見て他人が自然に抱く感情である。だから、年の上下とか、ヒゲの有無には関係はない。
哲学科を出ていながらこんなことすら分かっていないので、これも「知識のレベルと人間としてのレベルとが無関係」の好例であった。
筆者は神戸の六甲にあるカトリック系の私立校出身で、ご当地の同窓生会の会長代理であった。
ある同窓会場で、「自分はQ大の哲学科在学中の者ですが、特別に哲学がやりたくて哲学科に入ったのではなく、国立で入りやすそうな所ということで受験したら合格しました。現在留年3年目です」という後輩がいた。
これを聞いて、ヒラメ次長と像が一致した。どうせ、こんなことではあろうが、あのキキケケの中で旧帝大を出ているからと、社長にはピカッと光って見えたものらしい。
中学を出て、高校には行かず、屋台で野菜や果物を売っているオバチャン連でも、第二の誕生を体験した人なら「人形」であるかないかの判定はつ。「人形」では人間のレベルがお勉強の出来とは関係がないのだ。
「あの子、学校へ行ってた頃にはよくできて、どんな偉い人になるかと思ってたのに、二十歳過ぎれば“ただの人”だねぇ」という場合の“ただの人”を本書では「ヒトガタ」といっているのだ。
「うちの子が質問に行ったらまさぐった」と言う電話がたあったと伝えにきたバカ事務員はこいつだった。
こんなのが次長になったと知ったのは、例の「目の前がカーッなった」東大さんがYゼミナールに移った後で、色々と電話をしてきた話題の中で初めて知った。
「あの若さで次長になるとは、異例の抜擢だったそうですね」と言った。この東大さんのものに対する関心度のレベルはこの程度でしかなかった。「東大出」であることが「わが身の恥」なのだが...