人間は一生勉強する生き物です。

人間が学ぶという行為を繰り返しながら生きているということはすなわち不完全な自分を高めようとすることに他ならず、どこまで学んでも常に失敗をする可能性を孕んでいると言えるでしょう。

 

失敗するということは人間の本質と切り離せないことではありますが、それでも人は常に精一杯生きていると言えます。

少し語弊を招く言い方かもしれませんが・・・、要するに出来ることをやらないことも気付くべきことに気付けないことも能力の一つ。

そういった失敗を人が繰り返さない保証なんてどこにもないでしょう。

 

自分の才能、間違いなく確信できるほどそれをもっている人はきっとそれだけでいいんですよね。

なぜか魅力的な人、切れるひと、バランス感覚に優れた人、私も何人か知っています。

ただ、少なくとも自分は、そんなタイプの人間ではありません。

経験豊富な先輩に揉まれ、己の無力さを思い知り、失敗を繰り返し、ちょっと成果を出してもまたすぐへこんだり、心ある人の叱咤激励が後から効いてきたり、社会に出てみるとそんなことの繰り返しだった気がします。

 

 

世の中には本当に色々な人がいて、色々な頭の使い方をしているから、どんな生き方が正解かということは一概には言えません。

多様性が生まれる側面がある一方で、何をお手本にしていいか迷ってしまうことも多いです。

きっと、特化したそれぞれの感覚、理想をテーマにしても判断は仕切れないのでしょう。

だからこそ自分に必要だと思うものを取捨選択し、捉え直し、色々な角度から光を当てて、自分を削り出していくしかありません。

あるいはそれほど頑張らなくても生きていけるなら、小難しいことは考えずにただ楽に生きていくということも楽しい生き方です。

 

「生きる」ことが保証された私たちは退化の一方になるでしょう。

またそれを防ぐために自らに苦しみやハンデを課して生きることで自分を強く、進化させようとしています。

 

昨今の社会を見ていて思うのは、生き方の選択肢が増えた結果、自由にしか生きられない人間も増えたと言うこと。

ある程度後先考えずに生きられるようになったのは社会の豊かさの恩恵と言えるかもしれませんが、精神の脆弱性を肯定し、社会が優しさを増す一方で、不寛容な人間に対する不寛容というパラドクスが起こっている気がします。

優しくされないと生きられないからもっと優しくしろ、という弱者の脅迫めいたものもそこにみられます。

生きていて当然が多すぎる。ご飯を残す人が多すぎるのです。

 

とはいえ、私自身もまさか蒸気機関が発明される前の時代に戻って生活はできないだろうから、現代人として失ってしまった能力を特に追い求めることもなく社会のもたらす利便性に甘え、今の時代に即した生き方をしている。

自覚があろうとなかろうとそれは変わらないけれど、自覚を持って自身の傲慢さを受け止め、積み重ねてきた文明の上に立っていることに感謝し、社会の発展に僅かでも寄与できる人間でありたい。

 

 

 

私が大学生くらいの頃には、勉強に邁進してきた優秀な学生が、怪しげな新興宗教やらねずみ講にコロッとはまってしまう状況がまだありました。

勧誘してくる人たちはいかにもまっとうなように近づいてきて、その中に巧妙な嘘を混ぜ込んできます。

宗教において祈ることで精神が静謐な状態に落ち着くのが好きというのは分かる気もするし、意識の高い人たちに囲まれて自分が特別な何かになれた気がするというのもまぁわからなくもないのだけれど、何かに心酔してしまうと考える力を失ってしまう。

今はコンテンツが増えて心酔できる対象も多様化しているけれど、結局大切なのは分からないことに短絡的な結論を出さずに「分からない」というカテゴリに分類して保留する能力。

耳障りのいい言葉の中に潜んでいる偽物に騙されないことだと思います。

 

昔、同級生から勧誘された時のある種の異様な雰囲気にトラウマがあるのかもしれないけど、勧誘じゃなくても変に自信のみなぎっている人は警戒してしまいます。

それは、その人が強いパワーで突き進むその傍で他人が(或いはその人自身が)大切にしているものまでひき潰してしまているのではないかという疑念が拭えないからです。

何とかそのパワーだけもらって丁寧に自分に落とし込みたい気もするけれど、やはり色々なことを気にしているとそのパワーは失われてしまうようです。

とはいえ、私自身も自惚れたり落ち込んだりを繰り返しながら学んでいっている気はするので、人のことにケチをつける前にまずは己を律しよう。

 

 

 

重要なことに関しては一度、自分の頭で考える。人の意見を聞く、情報を集める。そのあとに修正する。これが基本。

どんなに尊敬できる人物の指導の下にあったとしても、できる限りはそういう風に頭を痛めつけなければロボットみたいになってしまいます。

 

独りよがりにならないためにも他人の物差しや目の前の事実とどうやって比べるかという視点は大切で、その意味で社会人になったばかりの頃の感覚って結構重要だったなと思うようになりました。

何かを深く突き詰めようとすると、スタート地点に立っている人との意識の乖離を認識しづらくなります。

未熟な志は、間違えていること、現実離れしている事も多いけれど、経験を積んでいく中で現実と照らし合わせ、置き換えつつも「その頃の自分はどうしたら納得できたのか」を突き詰めることは意識差について考える上での一つの物差しになるし、独自性の一つのベクトルにもなるような気がします。

また、今よりも未熟だった頃の自分を知り、別の未熟さを持った他人の存在に気づくことが、物事を丁寧にみていこうと考えるきっかけになりました。

自分はどのような志で今の仕事をしていたのか、自問自答は怠らないようにしたい。

 

 

 

私の尊敬する建築家である安藤忠雄氏の新聞記事を読んでいて、大変印象に残った言葉があります。

安藤氏の場合は学ぶということの軸として建築があったわけですが、多くを学び、多くの新しいものに価値観を揺さぶられるに当たってその軸だけが揺るがないという事も無かった様です。

 

「何とか今までこの職業で生きてくることができた」

 

何気ないインタビューの中での一言だったのですが、この一言に彼の苦労が集約されていると感じました。

聞いていて全く意味がわからないことなどない。実行にその本質があり、それを根気強く続けること、そういうことのような気がします。

 

 

 

迷うこと、悩むことは試行錯誤の過程で切り離せないものです。

日常化した努力をベースに、時々初心に返りつつ、壁を感じたらその都度課題とし、乗り越える。

ほどほどに息抜きもしながら、何も思いつかなかったら時には足掻いてみることも大切でしょう。

 

努力と言っても、底力を振り絞るような努力はおそらく日常的にはできません。

そこまでワーカホリックにならなくても、ダラダラと続けることで得られる蓄積も自分を形作る大切なファクターです。

 

ただ、自分で何かを形にしたければ、何者かになりたいなら、努力の「質」と「量」がどうしても必要で、その上で自分にしかない強みを持つことが不可欠です。

独自性を持ちつつも王道、それを削り出すにはただ変わったことをやってみるだけではダメなようです。

 

志を持ち、こだわりを貫くことが独自の視点を育て、その人の強みを生むのだと思います。

色んな人の意見はもちろん積極的に取り入れるべきですが、そこで「じゃあ自分はどう考えるか?」という視点を失ってしまうと、ただ言われた仕事をこなすだけの簡単に替えのきく人材が出来上がってしまいます。

 

自己教育力の高い人は何をやってもそれなりにできるようになるから、結局何に興味を持って実践したかということ位でしか違いが生まれない気がしていたけれど、既存のものでも自分なりの視点で捉え直す作業によって独自性は生まれてくるし、努力の「着地点」の話になるとやはり感性が必要なようです。