学習者にとって指導者は頼もしい存在であると同時に、目の上のたんこぶでもあります。
自分とは違う感覚や経験を備えた人間に師事することは自分の歩く先を照らしてもらえることでもありますが、自分の歩みたい道の先に指導者の姿はないのではないかと言う葛藤を覚えてしまうことも。
子供の頃は、私自身もよく「大人は判ってくれない」と不満を募らせていました。

指導者は学習者より経験が豊富なだけで決して万能ではありません。
「勉強を教える」と言うよりは、「学習者に合ったやり方を一緒に考える」「脳を育てる」という意識がいいのではないでしょうか。
勉強を教えるのはあくまで「お手本を示す」行為とし、学習者が理解し実践できるようになっているかを学習者自身に考えるように促していく。
指導者は自身の経験の中から学習者に役立ちそうなことを提案し、知らないことは素直に認め、知識にアクセスする方法を示してあげることです。

学習者はいずれ、指導者の全く知らないことも自分の力で勉強していくことになります。
その時に役に立たない学習では意味がないのではないかなと私は思います。

学習者にとって指導者が先生であることと同様に、指導者にとってはどこまでいっても学習者が先生です。
二人三脚で学力を伸ばしていきましょう。



▽学習者の立場に立って考える

①適切な課題を設定する
難しい問題を解けば解くほどできるようになると考え、学習者に無茶をさせようとする指導者がいます(或いは学習者自身が難問ばかり解こうとする傾向が見られることがあります)が、これは逆効果です。
例えば、あなたが聞いたこともない言語の文書と辞書を渡されて翻訳しろと言われたらどうでしょうか?
もしくは見たことのない記号がてんこ盛りの数式をいきなり与えられたら?
頑張れば或いはできるのかもしれませんが、その非効率さと無意味さに辟易してしまうことでしょう。
ある程度思考力を働かせることができるレベルの課題であることが適切かどうか見分けるポイントです。

②ご褒美を設定する
学習者が幼いうちは、おやつやゲームなどのご褒美が短期的なやる気を引き出してくれることに疑いの余地はないでしょう。
ご褒美を設定することは目標を明確化する上で有効ですし、モチベーションになります。
ただし、自分でご褒美を設定すると際限なく甘くなってしまいますし、指導者側からであってもあまりに与えすぎると効果がなくなってしまいますので、特別感を保てるギリギリを見極めてあげるといいでしょう。
学習者がある課題を早く片付けた時に、「時間があるからあれもこれも」と課題を増やすのはお勧めしません。
次から課題を早く片付けようというモチベーションを無くしてしまいます。
設定した課題が終わったら遊ばせてあげましょう。
勉強だけが学びではありません、遊びの中から学ぶことも多いです。

③自分の感覚に集中させる
何かを習得する際に、学習者が自分の感覚に集中し、自問自答を繰り返し、納得したり間違いに気づいたりすることはとても大切です。
指示やお喋りが過剰な指導者は、この集中を阻害してしまいます。
一連の流れを感じる手助けをしたら、口出しすべきでないタイミングも心得ておきましょう。



▽指導者の立場で考えるべきこと
指導者自身が何かを勉強している状態にあることは、学習者の視点を忘れない上でも有効です。

①興味を伸ばしてあげること
興味を持ったことは、頭に入りやすいです。
この状態をなるべく上手に利用してしまうことは、学習において有効に機能します。
例えば映画を観て興味を示していたら、そこで終わりにしてしまうのではなく、原作本を与えてみるとか、舞台となった土地に関連する事柄を調べてみるとか、そこから何かしらの学びにつなげることが、身の回りのことを学習的視点を導入して面白がるきっかけになります。
「イギリスに旅行してみたけれど、イギリスが世界地図のどの辺の場所かさっぱりわかりません。」なんて状態はやはり少し寂しいですよね。
ただ、これは学習者の積極性を引き出すことが目的ですので、学習者が嫌がる場合は指導者の方が噛み砕いて説明してあげたり、最終的には切り上げてしまうのがいいでしょう。
嫌いにさせてしまっては元も子もありません。

②苦手を放置しないこと
学習者はどうしても得意なこと、好きなことばかりやってしまい、苦手なことを放置してしまいがちです。
苦手を放置しない計画を立て、質問を促したり調べさせたりして苦手を克服する勉強にも焦点を当てていきましょう。

③お手本を示すこと
勉強はインプットとアウトプットの繰り返しです。
インプットの際には、お手本を示してあげることで学習者の感覚をリードしていくことができます。
コツとしてですが、最初から正解をすんなり教えてしまうよりは、ある程度の負荷をかけてから(アウトプットを引き出してから)正解を教えてあげた方が子供自身の納得に繋がります。
最初から「地球が回っているから星が動いて見えるのですよ」と説明するより、「星が動いて見えるのはどうしてだと思う?」と言う問いを投げて少し考えさせてから「実は地球が回っているからなんだよ」と教えてあげることの方が有効だと思います。
子供の思考力を伸ばしたいと言うことで「わかるまで考えなさい」と言う指導をする方を時々見るのですが、ある程度考えさせたら正解は教えてあげた方がいいと思います。
お手本なき自由思考も考える力を養うのに役立ちますが、「わからない」と言う結論に至ったあとは思考が停止してしまいます。
今現在組み立てが自分で出来ないのなら正解を教えてあげてどこが欠けていたかを分析させる方が役に立つでしょう。



▽夢を託さないこと

「勉強していなくて後悔している」という人は多いです。
しかしそのような人がもし学生時代にもう一度戻ることができたら、果たして努力できるのでしょうか?

その答えは、その人が「勉強をできなかった原因を克服しているかどうか」次第です。
学生生活を離れ、当時の悩みと無縁の環境に身を置いていたとしても、同じ環境に身を置けば同じ問題がふたたび我が身に降りかかることになります。
私自身も学生時代の不勉強を悔いた1人ですが、自らの学問を捉え直す機会を得た際には、「私は何も成長していなかったのだなぁ」と大いに反省したものです。

ダイエットや禁煙などの依存症からの脱却など、様々なやり方が存在しますが、中々成功できない人が多いですよね。
それらと同様に、勉強もできない原因が取り除けない時はとんとできないものだと理解するべきです。
成功させるには意志の力以外に必要なものがあります。おそらくは、自身のアンコントローラブルな部分をコントローラブルにできているかどうか、ということなのでしょう。

なぜか自分の能力以上のことを教えられるつもりになっている指導者は多いですが、指導者は学習者に背中を見てもらうことしかできません。
学習者は指導者のいい部分も悪い部分もまねをようとします。
無限の努力が不可能である以上、「どれくらい頑張ればどれくらい出来るようになるのか」学習者は常に観察しようとしています。
学習者に指導者のいい部分だけを伝える、と言うことはできないのです。

また、指導者の思い描く理想の状態を学習者に押し付けようとしても、実現不可能な理想である場合がほとんどです。
なぜなら、実現不可能性を理解できていないから思い描いている本人が実現できていないのです。
できないことをやれ、と言われるほど学習者にとって理不尽と感じることはありません。
しかも、指導者自身が実現不可能性に気づいていない理想は、一見矛盾はないようにできていたりするので中々反論もできませんから、学習者にとっては地獄です。

どれだけ優秀な指導者の下で育ったとしても、学ぶのはあくまでも学習者本人です。
「こうした方がいいと私は思う」と言う意見は、たとえ確信があったとしても学習者に対する提案に留めるべきでしょう。
もちろん指導者自身が身を持って体感し「これは役に立った」と言うことは伝えていけばいいです。
それでさえ、指導者と学習者の感覚の違いにより伝わらない可能性もありますが。

ただ、その場で役に立たなくとも、「あの時言われたことはこう言うことだったのか」と、後から実感が追いついてくることもあります。
様々な提案を受けたと言う事実が学習者の引き出しになっていくでしょう。



▽老害はなぜ生まれるか

自分自身が子供だった頃のことを考えてみると、その時代に学び、大人たちとは違った感性で物事を見ていたように思います。
そうして時代の感性を反映して育った様々な子供たちに最も受け入れられるものが次の時代の感性を作っているのかもしれません。

歳を取れば取るほど、物事を1から捉え直すということが年々やりにくくなってくるのではないかと思います。
何度か捉え直す機会を得たとしても、いずれは飽きに勝てなくなってしまうでしょう。

似たようなことの繰り返しの中に、時代に沿った新しい種がまかれています。
どのような技術革新が起こって世の中が変化したとしても、人間そのものは大きく変わりはしないでしょう。
そこに見られるのは斬新で大きな変化などではなく、わずかな、しかし違和感を覚えるのに十分な時代を反映した変化です。

子供が興味を持つことは本当にくだらないと思うことが多いです。
例えば、机に落書きをしたり、トイレの石鹸を床にぶちまけてみたり、「何が面白いんだ」と問い詰めたくなりますが、当の子供達にとっては面白くってたまらないみたいです(もちろん冷ややかな視線を送る子供達もいます)。
ただ、私が子供の時分もそのようないたずらっ子たちはたくさんいたなと思います。

また、流行りの歌なんて時代の変化を如実に実感することが多いです。
愛だの恋だの、若者の悩むことは大体一緒だなぁと思います。
しかしその時代独特の感性は確実にその中に含まれています。

老人にとって若者のカルチャーはつまらないのです。それはきっとほとんどが同じことの繰り返しだからなのでしょう。
しかし、それらは時代を反映しています。
同じ時代を生きている以上、よく考えればきっと理解できるものです。しかし、馬鹿馬鹿しくっていつまでもは考えていられないのです。

捉え直せる限りは捉え直していくことも大切ですが、いずれは自分には踏み込めない領域として尊重していくことでしか共存できないような気がします。