私の兄は大学3年生です。
音楽がとても好きな人で、言葉を喋るより先にビートルズを歌っていたという武勇伝があります。
歌うのが大好きで、それ以外趣味はないと言い張るほど、歌を愛する人です。楽器は苦手みたい。

母は50前で、絵描きになるのが夢でした。
美大に通い必死に日本画を描いていたけど、家族が認めてくれず、よんどころなく就職をし、父と結婚したそうです。だから私の家には母が青春時代に描いた絵が沢山飾ってあります。風景画や人物画もありますが、そのほとんどは美しい花々の絵です。花とお菓子が好きな人です。

父は60過ぎで、今でも工場で働いています。
田舎の貧しい家で育ち、優秀な大学に進学したけれど学費が払えず中退し、都会に出て今の工場に就職しました。頭は固いし酒癖は悪いけど、私が小学生の頃は週末にいろんな所へ連れて行ってくれました。USJの開演前から列に並び、ゲートが開いた途端一緒に走ってアトラクションに向かった覚えがあります。大きくて硬い手をずっと握っていました。

私はというと、大学に行く気がまるでない高校三年生です。
勉強は出来ないわけじゃないから、渋々勉強をして進学するつもりです。音楽が好きで、中学時代は学校をサボってはライブハウスに通っていました。同時に文学も好きで、特に宮沢賢治には大きな影響を受けました。賢治さんに習って菜食家になろうと本気で思ったほどです。音楽と文学と、とにかく人の作り出した作品が好きな私です。


今日の深夜1時頃、1人リビングで塾の宿題をしていたら、母親が泣きながら寝室から出てきました。一緒に寝ていた父に無理やり起こされ、兄の成績について教育がなっていないと突然怒られたようです。父がこの時間まで起きているのは、ひとえに昼間から酒を飲み惰眠を貪っていたからです。だらしのない人です。人のことは言えないけど。
涙と怒りを交互に出力する母の背中を擦りながら、「あぁ、泣いている人間はこんなに汚い顔をするんだな。すごく人間ぽいな」と思いました。私はロックはロックでも、汗と唾とを振りまきながら下品なことを叫ぶように歌うロックが好きです。なので、こういう人のありのままの何かが感じられるような様子がとても好きなのです。母は可愛い人です。
兄もなんだなんだとリビングにやってきて、事態の原因が自分にあることを知って嫌そうな顔をしました。自分の成績は大して悪くない、と主張したそのすぐ後に、ちょっとは悪いかもしれないけど、と訂正をしていました。兄は現実的で、でも夢を見る人です。
兄は大学3年生です。周りはもう本格的に就活を始めているそうです。それでも兄はインターンにも参加せず、履歴書も買っていません。兄にはどうしてもやりたいことがあるのです。
兄は、何もせずに就職するのは嫌だ、と言いました。少しでも挑戦してみて、それでダメなら踏ん切りが着くかもしれない。まぁ無理だろうけど。兄は理屈っぽい人です。私のやることなすこと全て、何かと論破しようとしてきます。それでも自分のことには自信が持てず、はっきりとものが言えないみたいです。
母は、「わかったわかった。でも…」を何度も使いました。理解を示すけれど、すぐ逆説語を使い、兄の話を否定していきます。
母は大学生の頃必死に追っていた夢を、就職すると共に諦めました。
それも、自分の中で折り合いがついたのではなく、家族に無理やりそれを強いられたのです。母はその恨みを、悔しさを、やるせなさを、今でも深く深く抱いています。だから兄が自分の行きたい方向へ進むことが許せないのです。

私は気楽なもんです。
大学に行って、何となく文学や創作を学び、サークルで音楽をやりたいなと思っています。背負うものは何もありません。就活なんて、遠い未来の話だと感じています。

兄は話しながら「意地でもあいつの思い通りにはならない。就職したくない」と言いました。見たことがないほど、私が笑ってしまいそうなほど、顔をくちゃくちゃに歪めていました。兄は本気でした。何もおかしいことはひとつもなかったのです。笑ったことをすぐに後悔しました。


兄は、やりたいことがあるけど就職もしないといけないのは分かっているし、早く父を楽にさせてあげたい、でも思い通りになったら俺の生きる人生に価値はないんだ、と言います。
母は、絵は好きだけどあなた達が1人前になるまではもう絵を描く余裕はない、そしておじいちゃんおばあちゃんの老後を支えてあげないといけない、と言います。

兄は長男であり、もうすぐ社会人になります。
母は母であり、子であり、立派な大人です。

みんな、背負うものがあるみたいです。
自分の意志があってもそこに向かって一目散に走り出すことは出来ない。自分の勝手が自分の大切な人を苦しめるから。
みんな、大変だなと思いました。
私は、歌がやりたいなら歌えばいいし、絵が描きたいなら描けばいいのに、とただ思うだけです。私には背負うものがまだ少ないのです。せいぜい自分の大学進学にかかる奨学金程度でしょうか。気楽なもんだと今のところ思います。


兄も母も、父も、可愛い人です。
みんな1人残らず幸せになって欲しいし、笑っていて欲しい。
それでも、今の私には出来ないのかもしれません。
私はきっとまだ、手の中にいるから
その手の中で自由に暮らすばかりで、外の世界を知りません。
その手の温もりに甘え続けてきました。
いつか私も何かを背負い、誰かを温めるのです。
そうなりたいと思っています。

兄が、少しでもやりたいことが出来ますように。生きることに絶望してしまったり、幸せも不幸せも何も感じない人になってしまいませんように。

母の絵を描くことへの後悔が、いつか無くなりますように。
呪いのような執念が、恨みが溶けて、スケッチブックに美しい花が咲いていますように。美味しいお菓子も食べれてもっと太って、おじいちゃんおばあちゃんもなるべく不自由のない生活ができていますように。

父が早く仕事を辞められますように。
フラフラなのに毎朝工場に行くあの体を早く休ませて、楽に出来ますように。なるべく病気もせず、あと20年くらいは生きていてくれますように。悪酔いして母を叱りつけたり、怒鳴ったりしませんように。


夏の日、9年前に亡くなった私の神様。
お願いします。
私にはまだ何も出来ないから、勉強していい大学にいくくらいしか出来ないから、少しでもみんなを幸せにしてあげてください。
ね、お願い。おばあちゃん。



もう3時を過ぎたから寝よう。
どうか健やかに。おやすみなさい。