さて、戦国ブログになりつつあるこのブログですが……
斎藤道三と織田信長と明智光秀の関係も面白いので、ちょっとまとめておいてみます。



まず、織田信長と斎藤道三は……
義理の親子です。

斎藤道三の娘、帰蝶(濃姫)と信長は政略結婚しています。
信長が15歳の時。
当然、信長の最初の妻で、正妻です。

「帰蝶」は濃姫の本来の名前で、信長に嫁いだ時に「美濃からの姫」というコトで、
「濃姫」と呼ばれるようになったらしいです。
現在では「濃姫」と呼ばれるのが一般的なので、ここからは「濃姫」として書きますね。



斎藤道三は早くから、織田信長に目をかけていて、信長と濃姫が結婚した後に、わざわざ信長と会見し、
(まだ織田信秀が亡くなる前で、信長が「うつけ」と呼ばれていた頃)
信長の才能を見抜いて、家臣に対して
「我が子たちはあのうつけ(信長)の馬をつなぐようになるだろう」
と言ったと伝えられています。

そして晩年、道三は信長に対して美濃を譲り渡すという遺言書を送ったとも伝えられています。
娘婿とはいえ、他国の国主にそんな書状を残すのは異例のコト。

信長も、それを受けてか……
道三とその息子義龍の親子合戦の時にも、道三側に援軍を送ろうとしています。
決着が早くついてしまったために、間に合いませんでしたが。

はっきり言ってこんな他国の戦に援軍を送るなど、意味のないコトで、合理主義者の信長には似合わないコトなのですが、
そうまでさせる関係性が道三と信長の間にはあったのでしょう。

そして、後に美濃を奪った時に、信長は稲葉山城を居城に決めています。

信長は稲葉山城の名前を「岐阜城」と改めて、同時期に「天下布武」の印章を使うようになる……

つまりは、尾張と美濃の二国を奪ってから信長は、天下取りを本格的に意識し始めたというコトです。

それは、「斎藤道三の遺産」と言えるのかも。
稲葉山城には、道三の思想がたくさん残されていたでしょうしね。



さて、明智光秀と斎藤道三の関係は……
明智光秀の父、明智光綱は道三の家臣で、その妹の小見の方が斎藤道三の正妻でした。
光秀は斎藤道三の家臣として早くから仕えていた、と考えられます。

光秀は鉄砲の名手でしたが、その技も道三から伝えられたのかもしれません。

明智光秀の能力の高さは、斎藤道三の軍略を若い頃から間近で学んでいたコトによる部分が大きいかと。

道三と義龍の親子合戦の時には、光秀は道三側に味方しています。
もし信長の援軍が間に合っていたら……
ココで信長と光秀が出会っていたかもしれません。

実際には光秀はココで負けて、諸国を放浪するコトになるのですが。



さて、信長と光秀の関係は……
信長の正妻、濃姫と明智光秀は従兄弟(いとこ)です。
明智光秀の父、「明智光綱」と
濃姫の母、「小見の方」が兄妹。

なので、明智光秀が40歳で織田家に仕官したのも、そういう関係があってのコトだったからかもしれませんね。

そして二人とも、ある意味
「斎藤道三の弟子」
といえる存在……

その二人が協力して天下取りへ向かい、
しかし最後は「本能寺の変」で敵同士となってしまう。

必然?偶然?
濃い運命ですね……



というわけで、斎藤道三と織田信長、明智光秀の関係……
「濃姫」の存在とも合わせて、関係性が深くて面白いです。

斎藤道三がいなかったら、信長は天下取りに向かえなかったかもしれません。

以前も書きましたが、「楽市楽座」や「関所の廃止」といった信長の政策は、道三が思いついて信長が受け継いだ、
と、考えるほうが自然です。

斎藤道三、意外に戦国の重要人物です。

そして美濃、現在の岐阜県も……
道三、信長が居城とした稲葉山城があるだけでなく、後に大決戦場となった「関ヶ原」もある戦国時代の重要な地域です。

戦国時代では、岐阜県は主役ですね。
今までは岐阜県に対する印象が薄かった私ですが、戦国時代について調べていくうちに岐阜県にあこがれるようになりました。

ココに目をつけて奪ってしまった道三はさすがです。



へそ天!
ゆないキズトでした!