実母は45歳で脳出血で倒れ、右半身不随になりました。
右半身不随になると言語障害を合併する事が多いのですが、幸運な事に母に言語障害は出ませんでした。

母が倒れたのは私が中学校3年生の時
職場で倒れ、授業中に電話がかかってきたのを覚えています。

身体は不自由でしたが、若い頃は家事をどうにかこなし、家で過ごしていました。
2011年、転倒して腰椎圧迫骨折して入院(2回目)
認知症も発症していた母はリハビリも拒否し、在宅生活が難しくなって、療養型病棟を経て特養入所していました。
(1度目の時は父が存命中で、頑張ってリハビリして家に帰っていたのですが)


特養は私の家からも車で10分程度
時々会いに行っては話をしていました。
特養で穏やかに過ごしていて安心していました。
息子1号が帰省した時は必ず家族で会いに行ってくれ、初ひ孫にも会えてとっても嬉しそうでした。

新型コロナの流行とともに面会は出来なくなり、2020年のお正月に一時帰宅した母と会ったのを最後に会えなくなってしまいました。

2023年からは前日までに予約すれば、少しの時間は面会できると兄から聞いていました。
が、仕事と義母、夫の事と、畑作業でバタバタしていた私は、また行こう、そのうち行こうと面会を伸ばし伸ばしにしていました。


3月下旬の事
兄から電話があり
特養から連絡があり、母の意識があったり無かったりするので、病院に搬送されたと。
病院行けるか?と聞かれたのですが、
ちょうどその日は夫の訪問看護ステーションとの契約と担当者会議があり、直ぐに向かう事ができませんでした。
病院へは兄嫁が行ってくれました。
搬送された時点では母の意識は戻っていて
兄嫁が「おかあさんわかる?」と言うと「わかる」と返事があったそうです。

結局その日は意識が戻ったと聞いてほっとしました。
様子見でしばらくは入院になったので、翌日会いに行きたかったのですが、コロナで面会は禁止でした。

まだまだ元気でいてくれると思っていた母も、いつ何があるかわからない。
今回の事で思い知って、特養へ帰ったら直ぐに会いに行こうと思いました。
4月下旬には東京の息子1号家族が帰省する予定だったので、2人のひ孫にも会わせて...と



ところが....
入院から数日後
心原性の脳梗塞を発症し、危篤状態になってしまいました。
かなり重篤な状態なので、会いに来れますか?との連絡を受け、兄と待ち合わせて病院へ。

そこには意識もなく、変わり果てた姿の母がいました。
もう死期が近いからか、規制無く身体も触らせてもらい、
「まだ会えてないひ孫に会わせたかったのに.....」
泣きながら話かけました。
長くは会わせてもらえませんでした。


その日から数日後
いつ逝くかわからない状況から、母は持ち直しました。
意識はないけど、SPO2、血圧、脈拍も落ち着いているので、しばらくはこの状態が続きそうとの事でした。


落ち着くと会わせてもらえなくなってしまいました。
結局4月下旬に帰省した息子一家は面会できずじまいでした。


5月8日の新型コロナ5類への移行を機に
予約すれば、15分だけは会える事になり、できる限り会いに行きました。

危篤状態の時とは違って、母はしっかり目を開けて見えているようでした。
アクリル板越しではありましたが、話かけると、こちらを向く事もあり、きっと聞こえていると思いました。


母は45歳の脳出血で左脳がかなりダメージを受けていました。

今回の脳梗塞で他のかなりの部分が大きくダメージを受け、もう回復する事はないとの事でした。
その上で、延命措置をどうするか
医師から確認があり、兄は装置は付けないと答えたと言っていましたが、

私が面会に行った際
改めて、今後の事を確認されました。

中心静脈栄養か?末梢の点滴の継続か?
中心静脈栄養のリスクも説明された上の事


母は父が亡くなってからずっと、機会があるごとに
「はようおじいさん迎えに来てくれたらええのに」
と言っていました。

子供としては、生きていて欲しい.....
でも、回復の見込みがないのに、リスクを承知で中心静脈栄養を希望して、父のもとへ行かせないのはひどく残酷な気がしました。

兄に連絡して相談しました。
兄も生きていて欲しいとの思いから
しばらく考えているようでしたが、
「治らんもんな、しょうがないよな」と言い
末梢の点滴の継続を決めました。


医師と会ってそれを伝えると涙が止まらなくなりました。

それはきっと 特養で会える時があったのに会いに行かなかった後悔の気持ちから。

話せるうちにひ孫が3人になってる事伝えて、写真や動画を見せてあげたかった。
今となってはどうする事もできないとの思い...



長くなってしまったので、続きはまた次回に