スナフキン(典: Snusmumriken、芬: Nuuskamuikkunen)声 - 西本裕行/子安武人/白熊寛嗣ムーミントロールの親友。しっぽが描かれた挿絵も存在する。自由と孤独、音楽を愛する旅人。物事を所有することを嫌う。冬の来る前に南へ旅立ち、春の訪れとともにムーミン谷に戻ってくる。ただし、原作『楽
しいムーミン一家』ではムーミンと共に冬眠する描写がある。アニメーション版では理知的で静かな大人という雰囲気のキャラクターである。これは子供らしさ
を残す主人公のムーミンに対して、その人生観や世界観によって影響を与えていく、いわば「導き手」として焦点化されたストーリー上の役割によると考える人もいる。父親はムーミンパパの友人ヨクサル。母親はミムラ族のミムラ夫人で、スナフキンはミムラ姉さんやミイの弟にあたる可能性もあるが、はっきりしな
い。「ムーミンパパの思い出」の中でパパが書いている「思い出の記」には、ヨクサルとミムラ夫人が出会って恋人になり、ミイが産まれたという記述はある
が、その時点でまだスナフキンが産まれたという記述はないため、もしこのミイが楽しい~以降のミイと同一人物であった場合、スナフキンは弟に当たる。同時
にミムラ姉さんはヨクサルとミムラ夫人が出会う前に生まれているので、異父姉に当たる。ただし、ムーミン作品では種族名がそのまま名前になっていたり、同一名称を持つキャラクターが多数出演しているため、スナフキンとミイの血縁については断言しかねる。1969年版・1972年版のアニメではアコースティック・ギターを弾き歌も歌うが、原作と『楽しいムーミン一家』ではハーモニカを吹き、歌わない。原作のスナフキンは理知的ではあるが孤独を好み、どちらかといえば人づきあいが苦手な人物として描かれている。立て札や看板が嫌いで、公園の「芝
生に入るべからず」のような立て札を見て怒り、抜き捨てたこともある。心を許しているのはムーミンなどごく一部の人々にすぎず、『ムーミン谷の十一月』で
はヘムレンさんなどの他人に対してひどく無愛想である。しかし『ムーミン谷の夏まつり』では、やむを得ず引きとることになった24人もの孤児(森の子供た
ち)の世話をした。『ムーミン・コミックス』シリーズに出てくるスナフキンは原作よりもやや外向的である。しかし自分の嫌いな人々がムーミンの家にやってくるとスナフキンはこそこそ逃げだしてしまう。『楽しいムーミン一家』では、ムーミン一家以外の人たちに対しても無愛想にならず、友好的に接している。何かと事件解決の突破口を作ることも多いためか、親友であるムーミンを始め周囲からは信頼され頼りになるキャラクターという設定である。日本名のスナフキンは英語名のSnufkinからの孫訳で、原作のスウェーデン語ではスヌスムムリク(嗅ぎタバコを吸う男の意味)という名で登場する。「スヌス」は「かぎたばこ」、「ムムリク」は親しみを込めて言う「あいつ、野郎」という意味のスウェーデン語。彼の自由気ままな生き方は、原作読者・アニメ視聴者の子供たちはもとより、日々の生活に疲れた一部の大人たちの郷愁・憧れも誘い、「スナフキン的な生き方」は理想の生活、スローライフの代名詞としても用いられることもある。その為公式サイトで行われたキャラクター投票では、一位をとるほどの人気キャラクターであった。文芸誌『ダ・ヴィンチ』の2005年12月号では、巻頭数十ページにわたってスナフキン一人の特集が組まれた。
スナフキンの名言
1.ぼくは、あっちでくらしたり、こっちでくらしたりさ。
今日はちょうどここにいただけで、明日はまたどこかへいくよ。
テントでくらすって、いいものだぜ。きみたちは、どこかへ行くとちゅうかい?
2.自分できれいだと思うものは、なんでもぼくのものさ。
その気になれば、世界中でもね。
3.そうだな。なんでも自分のものにして、 もって帰ろうとすると、むずかしいものなんだよ。
ぼくは、見るだけにしてるんだ。そして、たちさるときには、
それを頭の中へしまっておくのさ。ぼくはそれで、
かばんを持ち歩くよりも、ずっと楽しいね。
4.それはいいテントだが、人間は、ものに執着せぬようにしなきゃな。
すててしまえよ。小さなパンケーキ焼きの道具も。
ぼくたちには、用のなくなった道具だもの。
5.ありがとう。でも、いまも考えたんだけどもちものをふやすということは、
ほんとにおそろしいことですね
すごい分かるんだよな~。自由気ままでありながら
ここだという事は絶対に折れないスナフキンが好きです