今日、夕飯の献立を考えていたんです。
冷蔵庫を開けて、
じっと中身を眺める。
これ、毎日やっていることですよね。
ある程度は、
ルーティン化しているつもりでした。
月曜は肉、
火曜は魚、
みたいな。
でも、
今日はなんだか、
何も思い浮かばないのです。
ただ、
冷蔵庫の前に立っている。
玉ねぎが、
こちらをじっと見ている気がします。
「ねえ、私をどうするの?」
そう言われているような、
気がするのです。
皆さんは、
こういうこと、ありませんか?
料理をする人なら、
一度は経験があるはずです。
実は、
これって、
すごいことなんじゃないか。
そう思い始めたんです。
ただの献立の話です。
でも、
もっと深いところに、
何かがある。
そんな気がしてきたのです。
少し、
話を広げてみます。
献立を考える。
これは、
選択をしている、
ということになります。
今日、
何を食べるか。
それは、
明日の自分を、
決めることでもある。
もっと大げさに言えば、
自分の人生の方向性を、
決めている。
そんな大げさな、
と思われるかもしれません。
でも、
身体は食べたもので、
できていますから。
そうなると、
やはり、
馬鹿にはできない。
ここで、
一つ質問です。
皆さんは、
献立を決める時、
何を基準にしていますか?
安いから?
栄養があるから?
それとも、
単純に、
好きだから?
どれも正解なのだと思います。
けれど、
今日、
私は気づいてしまったんです。
実は、
どれも、
自分では選んでいないのではないか。
そう考えると、
少し怖くなってきます。
たとえば、
スーパーに行きます。
特売のコーナーがある。
自然と、
そこに足が向く。
安いから、
これを買おう。
そう、
思わされているだけではないか。
誰かに、
動かされているのではないか。
そんな妄想が、
頭をよぎるのです。
もちろん、
誰かが直接、
私の脳に命令しているわけではありません。
でも、
環境という見えない力に、
操られている。
そう考えると、
非常に面白いと思いませんか?
自分の意思だと思っていたものが、
実は、
誰かの仕掛けた、
『システム』
の上で、
動かされていた。
これ、
気づいた時は、
ゾッとしました。
夕飯の献立を考えていたはずが、
いつのまにか、
人生の選択の話になっている。
でも、
これって、
似ているんです。
小さい選択の積み重ねが、
結果として、
今の自分を形作っている。
では、
いったい、
どうしたらいいのか。
この、
『仕組み』
から、
抜け出すことはできるのか。
それとも、
このまま、
踊らされ続けるのか。
私は、
その時、
ある結論に達しました。
冷蔵庫の玉ねぎを、
じっと見つめ直す。
そして、
決めたんです。
今日は、
特売の肉を買うのはやめよう、と。
あえて、
何も計画せずに、
スーパーに行く。
何が起きるか、
分からない状態で、
飛び込んでみる。
そう決めた瞬間、
なんだか、
身体が軽くなった気がしました。
支配から、
解き放たれたような、
感覚です。
これは、
スゴイことだと思います!!
ただの夕飯の献立の話。
でも、
視点を変えれば、
それは、
自由への挑戦なんです。
皆さんも、
今日の夕飯、
いつもと違うことを、
してみませんか?
きっと、
何かが変わるはずです。
そう考えると、
明日が、
少し楽しみになってきませんか?
私は、
楽しみです。
本当に、
ワクワクしています。
夕飯一つで、
ここまで考えが膨らむなんて。
自分でも、
少し呆れていますが、
やっぱり、
面白いことなのだと思います。
・・
なんだか、
お腹が空いてきました。
さあ、
スーパーへ行ってきます。
何に出会えるか、
今から楽しみでなりません。
皆さんも、
よい夕飯を。
きっと、
素敵なことが、
待っていますからね。
スーパーへ向かう道すがら、
ふと、
そんなことを考えます。
そもそも、
なぜ私たちは、
これほどまでに、
「効率」を求めてしまうのでしょうか。
夕飯の献立を考えるとき。
仕事のスケジュールを組むとき。
あるいは、
人生の目標を立てるとき。
私たちはいつも、
最短距離で、
正解に辿り着こうとします。
失敗したくない。
損をしたくない。
無駄な時間は、
一分一秒だって、
過ごしたくない。
それは、
現代社会を生きるうえでの、
ある種の「生存戦略」なのかもしれません。
でも、
本当のところ、
どうなのでしょうか。
効率を追い求めた先に、
私たちは、
何を見つけているのでしょう。
たしかに、
無駄は減るかもしれません。
目的は、
早く達成できるかもしれません。
しかし、
その過程で、
私たちは、
大切な何かを、
こぼれ落としているのではないか。
そんなふうに、
感じることがあります。
たとえば、
散歩です。
目的地へ行くためだけに歩くなら、
一番近い道を選びますよね。
でも、
ただの散歩ならどうでしょう。
あえて、
裏道に入ってみる。
公園のベンチで、
少しだけ休憩する。
名もなき花に、
足を止めてみる。
そこには、
何の効率もありません。
でも、
その「無駄な時間」の中にこそ、
人生の彩りや、
予期せぬ発見がある。
そう、
「偶然の出会い」があるのです。
そう考えると、
私たちの人生そのものが、
一つの「寄り道」なのかもしれません。
効率よく、
生きるだけが、
すべてではない。
時には、
わざと道に迷ってみる。
時には、
あえて不自由を選んでみる。
それが、
案外、
一番の近道だったりするのです。
問題は、
効率そのものではありません。
問題は、
私たちの心が、
「効率」というモノサシだけで、
世界を測るようになってしまっていること。
それこそが、
一番の制限(せいげん)なのかもしれません。
制限というのは、
文字通り、
「限界を決めること」です。
「こうあるべきだ」
「こうするのが正解だ」
そんなふうに、
自分の可能性を、
自分自身で、
狭めてしまっている。
実は、
私もそうでした。
夕飯の献立すら、
栄養バランスや、
安さや、
手間を考えて、
ガチガチに決めていた。
それが、
自分のためだと思って。
でも、
それはただ、
「安心したいだけ」だったのかもしれません。
未知のものを、
排除したかっただけなのかもしれません。
でもね、
人生の面白さって、
どこにあるのでしょうか。
計算できる先にあるのでしょうか。
それとも、
計算できない場所に、
転がっているのでしょうか。
私は、
後者だと思います。
計算できないから、
面白い。
予想がつかないから、
生きていて楽しい。
そう考えると、
今日、
特売の肉を買うのをやめたという、
ささいな選択は、
自分の心に対する、
小さな反乱だったのかもしれません。
「私は、
効率に支配されないぞ」
という、
静かな意思表示。
大げさでしょうか。
いえ、
そんなことはありません。
身近な生活の中にある、
小さな選択。
その一つひとつが、
積み重なって、
私たちの人生という物語を、
作っているのですから。
そう思えば、
何気ない一日も、
ずいぶん違って見えてきませんか。
「ただの今日」が、
「新しい物語の始まり」になる。
ワクワクしてきませんか。
さあ、
スーパーの自動ドアが開きました。
空調のひんやりとした空気が、
肌を撫でます。
色とりどりの野菜。
活気のある売り場。
そこには、
計画通りにいかない、
生の生活が溢れています。
計画を立てることは、
悪いことではありません。
未来を想い描くことは、
とても素敵なことです。
でも、
時々でいい。
計画の端っこを、
わざと破いてみてください。
その隙間から、
思いがけない風が、
入ってくるはずです。
「今日は、何を食べようか」
そう考えながら、
野菜売り場の、
みずみずしい緑を眺める。
これだけで、
十分ではないでしょうか。
幸せというのは、
遠くにある特別なものではなくて、
こういう、
何気ない瞬間に、
ぽつんと隠れているものです。
皆さんも、
ぜひ、
探してみてください。
自分の手の中にある、
小さな自由を。
夕飯の帰り道、
空を見上げたら、
きれいな月が出ていました。
計画にはなかった、
おまけの景色。
やっぱり、
寄り道っていいものですね。
・・
さあ、
お腹もだいぶ空いてきました。
今日は、
何ができるでしょうか。
家に帰ったら、
まずは冷蔵庫を開けて、
中身と相談してみます。
何が出てくるか、
どんな味になるのか。
結果は、
食べるまでのお楽しみです。
皆さんも、
今日の夜が、
心温まる時間でありますように。
ゆっくりと、
深呼吸をして。
自分の心に、
正直に。
そんな風に、
一日を終えてみるのも、
いいものですよ。
明日もまた、
新しい風が吹くはずです。
楽しみですね。
本当の自由は、
意外と近くに、
落ちているのかもしれませんから。
そうはいっても、
「自由」という言葉は、
どこか重たい響きを持っています。
何かを捨てなければいけない。
あるいは、
どこか遠くへ行かなければいけない。
そんなふうに、
勝手にハードルを上げてしまっていることはないでしょうか。
実は、
自由とは、
「獲得するもの」ではなくて、
「気づくもの」なのです。
たとえば、
朝、起きたときに、
「今日は何をしようかな」と、
数秒だけ考える時間。
これも立派な、
自由なひとときです。
誰にも邪魔されない、
自分だけの思考の領域。
そこに、
誰の許可もいりません。
これが、
「自由」ということです。
そう考えると、
私たちは、
意外と豊かな自由を、
毎日ポケットに詰め込んで生きているのかもしれません。
でも、
ふとした瞬間に、
その存在を忘れてしまいます。
仕事の締切や、
誰かからの期待、
あるいは、
自分で自分にかけてしまった「こうあるべきだ」という鎖。
そうした目に見えない重石(おもし)が、
ポケットの中の自由を、
押しつぶしてしまうのです。
では、いったい、
どうすればいいのでしょうか。
解決策は、
案外シンプルです。
たまには、
「適当」に生きること。
ここでの「適当」というのは、
投げやりになることではありません。
自分の今の状態に、
「適」した「当」てはめ方をする。
つまり、
自分の心と体の調子に、
正直になるということです。
無理をしてまで、
遠くの目標を目指さなくてもいい。
今の自分にできる、
一番心地よいことを、
一つだけ選んでみる。
「今日は、あの本を読もう」
「いつもより、少しだけ丁寧に珈琲を淹れよう」
それだけで、
日常の風景は、
ガラリと変わるはずです。
それは、
まるで、
灰色だったキャンバスに、
一滴だけ、
絵の具を落とすような作業です。
その一滴が、
広がりを見せて、
少しずつ、
周りの景色を、
自分だけの色に染め上げていく。
これは、
とても素敵なことだと思いませんか。
もっとも、
世の中には、
自分だけではどうにもならないことも、
たくさんあります。
理不尽な上司や、
変わらない社会のルール。
そういった、
自分という個人の枠組みを、
超えた巨大な壁。
それと戦うことも、
時には必要かもしれません。
けれど、
その壁と戦うためにも、
まずは自分自身の「心」を、
自由にしておかなければいけません。
心が萎縮(いしゅく)していては、
高い壁を越えるための、
エネルギーさえ湧いてこないからです。
つまり、
自分の心を自由にするというのは、
「逃げる」ことではなく、
「戦うための準備」でもあるのです。
不思議ですよね。
ただ、
夕食に何を食べようかと考える。
そんな小さな選択の積み重ねが、
やがて、
自分の人生を大きく変えていく鍵になるなんて。
そう考えると、
日常のすべてが、
愛おしく思えてきます。
目の前の、
ちょっとした作業。
通り過ぎる、
何気ない風。
そのすべてに、
自分の意志を込めることができる。
自分の人生を、
自分で決めているという実感。
これこそが、
私たちが追い求めている、
本当の自由の正体なのです。
だからこそ、
難しく考えなくていい。
まずは、
今日という一日の終わりの、
この時間を、
自分のためだけに、
使ってみる。
お湯を沸かす音、
お皿を洗う水の感触、
窓の外の静けさ。
そうしたものに、
意識を集中するだけで、
世界はぐっと、
自分に近寄ってきます。
自由は、
どこか遠くにある、
虹のようなものじゃない。
いま、
あなたが息をしている、
その場所にあるのです。
そういえば、
冷蔵庫の中に、
少し残っていた野菜がありました。
何になるでしょうか。
スープにするのもいいし、
シンプルに焼いて、
塩を振るだけでもいい。
そんなことを考えていると、
なんだか、
明日が少しだけ、
楽しみになってきました。
皆さんも、
自分のポケットの中の自由を、
そっと取り出してみてください。
使い道は、
あなた次第です。
さて、
私はこれから、
キッチンに向かいます。
どんな夕飯ができあがるか。
結果は、
食べてからのお楽しみです。
・・