昨日、
家事を最低限にしました。
本当に、
最低限のことしか、
しなかったのです。
洗濯機は回しませんでした。
お皿も、
そのままシンクに放置しました。
床の掃除機も、
もちろん、
かけませんでした。
ようするに、
何もしなかったということです。
たったそれだけの、
小さなことでした。
では、いったい、
何が起きたのでしょうか。
実は、
我が家という小さな空間で、
恐ろしい変化が、
起きていたのです。
そう考えると、
これは、
ただのサボりではありません。
もっと深い意味を、
持っているのです。
ここで、
少し、
私たちの日常について、
考えてみたいと思います。
たとえば、
毎日、
私たちは、
たくさんの家事をこなしています。
朝起きて、
ご飯を作って、
お皿を洗って、
洗濯をして、
掃除をして、
夜はまた、
片付けをする。
これは、
当たり前のことです。
誰もが、
毎日、
同じようなことを、
繰り返しています。
では、
なぜ、
私たちは、
そんなにも一生懸命、
家事をするのでしょうか。
それは、
部屋を綺麗に保つためです。
家族が気持ちよく過ごすためです。
そして何より、
生活の秩序を、
守るためです。
つまり、
家事とは、
単なる作業ではないのです。
「生活の秩序(せいかつのおちょ)」
そのものなのです。
私たちが、
毎日、
せっせと手を動かしているのは、
目に見えない秩序を、
維持するためだったのです。
では、
その秩序を、
ほんの少し、
放棄したとしたら、
どうなるでしょうか。
ここで、
昨日の私の話を、
少しさせてください。
私は、
昨日の朝、
ふと思いました。
今日は、
もう、
なにもかも、
やめよう、と。
毎日のルーティンから、
ほんの少しだけ、
外れてみようと思ったのです。
洗濯物を放置し、
お皿を山積みにし、
布団も敷きっぱなしにしました。
その瞬間は、
ものすごい解放感でした。
「自由だ!」
心の中で、
叫びました。
主婦の、
ささやかな反逆です。
誰も怒らない。
誰も文句を言わない。
ただ、
時間が、
ゆっくりと流れていきました。
ソファに寝転がり、
テレビを見て、
お菓子を食べる。
最高でした。
本当に、
天国のような時間が、
流れていました。
これは、
スゴイことです!!
家事をしないだけで、
こんなにも自由な時間が、
手に入るのかと、
感動しました。
しかし、
問題は、
ここからです。
夕方になって、
少しずつ、
異変が起き始めました。
リビングを見渡すと、
なんだか、
空気が澱(よど)んでいるのです。
気のせいかと、
思いました。
でも、
気のせいではありませんでした。
シンクに積まれたお皿から、
なんだか、
無言の圧力のようなものが、
漂ってくるのです。
「おい、私を洗え」
そんな声が、
聞こえてくるような気がしました。
さらに、
洗濯カゴからは、
「いつまでここにいるんだ」という、
乾いた叫びが、
聞こえてくるようでした。
そう、
部屋のあちこちから、
モノたちの悲鳴が、
聞こえ始めたのです。
では、いったい、
何が起きているのでしょうか。
それは、
秩序が崩壊し始めた、
ということです。
人間は、
きれいな空間にいるとき、
心も穏やかでいられます。
でも、
ひとたび部屋が散らかり始めると、
その乱れが、
そのまま、
自分の心の中に、
流れ込んでくるのです。
散らかった部屋。
汚れたシンク。
山積みの洗濯物。
それらは、
ただの物ではありません。
「心の鏡(こころのかがみ)」
なのです。
部屋が乱れる。
すると、
心が乱れる。
心が乱れると、
さらに部屋が荒れる。
この、
恐ろしいループが、
始まってしまうのです。
昨日、
家事をサボった私は、
まさに、
このループの入り口に、
立っていたのでした。
怖いことです。
本当に、
恐ろしいことです。
たった一日、
洗濯をしなかっただけで、
私の心は、
徐々に、
荒野のような状態に、
なっていきました。
人間というのは、
不思議なものです。
少しの油断が、
大きな崩壊を、
招くのです。
歴史上の大帝国も、
きっと、
こんな風にして、
崩れていったのかもしれません。
最初は、
ほんの小さな、
気の緩みから、
始まったはずです。
「今日は、これくらいにしとこう」
「これくらい、誰も気づかないだろう」
そうやって、
秩序の網の目が、
少しずつ、
ほころびていく。
そして、
気づいたときには、
もう手遅れになっている。
私の家事放棄も、
まさに、
それと同じだったのです。
大げさだと思うかもしれません。
でも、
これは、
真実なのです。
たった一日の家事放棄が、
我が家に、
プチ終末世界を、
もたらしてしまったのです。
では、いったい、
私たちは、
どうすればいいのでしょうか。
この、
恐ろしい混沌(こんとん)から、
逃れるには、
どうしたらいいのでしょうか。
答えは、
意外と、
シンプルなところにあります。
それは、
「動くこと」です。
ほんの少しでいい。
たった一つの食器を、
洗うこと。
たった一枚のタオルを、
畳むこと。
それだけでいいのです。
その小さな行動が、
崩れかけた世界を、
再び、
元の形へと、
引き戻してくれるのです。
昨日の夜、
私は、
恐怖に耐えかねて、
立ち上がりました。
そして、
シンクに向かい、
一つだけ、
お皿を洗いました。
キュッ、と、
お皿が綺麗になった瞬間、
世界に、
光が戻ったような気がしました。
大げさではなく、
本当に、
そんな気がしたのです。
散らかった部屋が、
少しだけ、
息を吹き返しました。
モノたちが、
「ありがとう」と、
言ってくれたような気がしました。
そう考えると、
家事というのは、
ただの労働ではありません。
世界を維持するための、
「聖なる儀式(せいなるぎしき)」
なのかもしれません。
私たちが、
毎日、
何気なくやっている、
ご飯作りも、
お皿洗いも、
掃除も。
すべては、
この世界が崩壊しないようにするための、
大切な、
大切な、
魔法なのです。
そう。
魔法なのです。
私たちは、
毎日、
家事という名の魔法を使って、
自分の世界を守っているのです。
だから、
たまには、
サボってもいい。
人間だもの、
疲れる日もあります。
でも、
サボりすぎると、
世界が滅びかけてしまう。
その絶妙なバランスの上に、
私たちの日常は、
成り立っているのです。
今日は、
朝から、
気合を入れて、
洗濯機を回しました。
掃除機も、
隅々までかけました。
ピカピカになったリビングで、
今、
この文章を書いています。
空気は澄み切り、
心も、
どこか晴れやかです。
平和とは、
こういう小さな瞬間の、
積み重ねなのだと思います。
自分の部屋を整える。
それは、
自分の心を整えること。
そして、
自分の世界を、
しっかりと、
守り抜くことなのです。
だからこそ、
今日の家事は、
いつもよりも、
ちょっとだけ、
誇らしい気持ちで、
やっているのです。
明日も、
平和な世界が、
続きますように・・
ふと、
窓の外を見ると、
青空が広がっていました。
雲ひとつない、
見事なまでの、
青空です。
見上げていると、
なんだか、
胸の奥が、
スーッと軽くなるような気がします。
ここで、
少し、
話しは変わりますが、
みなさんは、
空を見上げていますか?
忙しい毎日を送っていると、
どうしても、
視線は下に、
下に向きがちになります。
足元を確かめながら、
転ばないように、
スマートフォンを見つめながら、
歩いています。
それは、
決して悪いことではありません。
現代社会を生き抜くためには、
必要なことです。
でも、
時々でいいので、
ほんの一瞬だけでもいいので、
視線を、
上に、
上げてみる。
それだけで、
世界の見え方が、
ガラリと変わることがあります。
では、
いったい、
何が変わるのでしょうか?
見上げることで、
自分の悩みや不安が、
どれほど小さなものであるかに、
気づくことができるのです。
私たちは、
日々の生活の中で、
様々な悩みを抱えています。
仕事のこと。
人間関係のこと。
将来のお金のこと。
悩みは尽きません。
目の前の問題が、
まるで世界の一大事のように、
思えてしまうこともあります。
でも、
空を見上げると、
そこには、
果てしない空間が広がっている。
自分を取り巻く世界は、
こんなにも広かったんだと思い出すのです。
そう考えると、
私たちの悩みも、
少しだけ、
軽くなるような気がします。
地球という惑星(わくせい)の、
ほんの一角で、
私たちは生きている。
そして、
その地球すらも、
宇宙という無限の空間の中では、
ほんの小さな点にすぎない。
そう思うと、
今抱えている問題も、
「まあ、なんとかなるか」と、
思えてきたりするのです。
不思議なものです。
ほんの少し視点を変えるだけで、
心の持ちようが、
これほどまでに変わる。
これは、
空間的な広がりだけではありません。
時間的な広がりについても、
同じことが言えます。
たとえば、
私たちが今見ている青空の向こうには、
何億光年という、
気が遠くなるような時間が、
流れています。
遠い昔の星の光が、
今、
私たちの目に届いている。
そう考えると、
私たちは、
途方もなく長い時間の、
ほんの一瞬を、
生きていることになります。
過去から受け継がれてきたバトンを、
今、
自分が握りしめている。
そして、
未来へと、
それを手渡していく。
歴史の大きな流れの中に、
自分という存在が、
確かに、
組み込まれているのです。
ここで、
思い出してみてください。
先ほど、
私たちがやっていた、
家事のことを。
ご飯を作り、
お皿を洗い、
掃除をする。
それは、
自分の世界を守るための魔法でした。
でも、
少し、
視野を広げてみてください。
その家事は、
本当に「自分だけ」のものなのでしょうか?
実は、
そうではありません。
私たちが毎日行っている家事は、
人類が何千年も、
何万年もかけて、
脈々と受け継いできた、
『生活の知恵』そのものなのです。
火を扱い、
道具を使い、
住まいを整える。
それは、
人間が人間として生きるための、
最も根源的な営みです。
私たちは、
ただ目の前の部屋を綺麗にしているだけではない。
人類の歴史そのものを、
自分の手で、
今ここに再現している。
そう考えると、
毎日の地味な家事が、
途方もなく壮大なドラマのように、
見えてこないでしょうか。
見えてきますよね。
本当に、
スゴイことだと思います。
食器を洗うその手は、
数万年前の先祖たちの手と、
同じ動きをしている。
部屋を掃くその姿は、
未来の子孫たちへバトンを繋ぐ、
尊い儀式そのものなのです。
では、いったい、
私たちが生きるということの本質は、
どこにあるのでしょうか?
それは、
大きなことや、
派手なことの中にはありません。
むしろ、
私たちが普段見過ごしてしまうような、
名もない日常の中にこそ、
その本質が隠されているのです。
朝起きて、
カーテンを開けて、
光を取り込む。
お気に入りのマグカップで、
コーヒーを淹れる。
散らかった床を、
きれいに掃き清める。
夕暮れ時に、
「今日の夕飯は何にしようか」と、
冷蔵庫の中身を考える。
そういう、
あまりにも当たり前で、
あまりにもささやかな日常の繰り返し。
それこそが、
私たちが生きているという証(あかし)であり、
人生のすべてなのだと思います。
もっとも、
私たちは、
「もっと大きなことを成し遂げなければならない」と、
思い込みがちです。
何か特別な実績を残さなければ、
自分には価値がないのではないかと、
不安になることがあります。
世間を見渡せば、
SNSなどで華やかな生活を送る人が、
たくさん目に入ってきます。
すごい才能を発揮して、
賞賛を浴びている人もいます。
それと自分を比べて、
ため息をついてしまう日もあるでしょう。
「自分はなんてちっぽけなんだろう」と、
落ち込んでしまうこともあるかもしれません。
でも、
それは、
大きな間違いなのです。
本当に大切なのは、
世間からどう見られるかではありません。
自分が、
目の前の現実を、
どう慈(いつく)しむか。
自分の足元を、
どれほど丁寧に、
見つめることができるか。
そこに尽きるのです。
どんなに大きな偉業を成し遂げた人であっても、
家の中では、
ご飯を食べ、
お皿を洗い、
眠りにつく。
例外なく、
同じ人間としての生活を営んでいます。
どれだけ社会的地位が高い人でも、
自分の機嫌を取り、
自分の心を整える作業からは、
逃れることができません。
そう考えると、
誰もがみんな、
同じ人間として、
この世界で生きる、
尊い仲間なのだということが見えてきます。
他人と比べる必要なんて、
最初からなかったのです。
自分の部屋を整える。
それは、
宇宙の秩序とつながる行為です。
自分にご飯を食べさせる。
それは、
命という奇跡を、
次の瞬間へと繋ぐ行為です。
そう。
あなたが今日やった家事は、
宇宙を維持するのと同じくらい、
尊いことなのです。
ちょっと大げさに聞こえるかもしれません。
でも、
決して大げさではないのです。
なぜなら、
宇宙というものは、
外側のどこか遠くにあるものではなく、
今、
あなたが立っているこの場所から、
始まっているからです。
あなたの足元があり、
あなたの部屋があり、
あなたの呼吸がある。
そこからしか、
世界は広がりません。
だからこそ、
あなたの世界を大切にすることは、
この世界全体を大切にすることと、
まったく同じ意味を持っているのです。
そう考えると、
なんだか、
胸が熱くなってきます。
私たちは、
ただの通りすがりではありません。
この世界の主人公として、
しっかりと、
ここに存在しているのです。
今日の夕方、
少しだけ買い出しに行こうと思います。
近所のスーパーまで、
歩いていく。
いつもは何気なく通り過ぎる道すがらも、
きっと、
違った景色に見えるはずです。
風の匂いを感じ、
街路樹の葉が擦れ合う音を聞き、
行き交う人々の営みを感じ取る。
すべてが、
愛おしく思える。
そんな気がしています。
世界は美しく、
そして、
私たちの日常もまた、
同じくらい美しい。
だからこそ、
今日も、
明日も、
私たちは丁寧に暮らしていく。
自分の手で、
自分の世界を守りながら。
しっかりと、
胸を張って。
一歩一歩、
歩いていこうと思います。
平和な世界が、
ずっと続きますように・・