ふと思ったのは歳をとるということは諦めることなんだなと。
前にも一度書いたことがありますが、この諦めるという言葉は元々はやろうとしたことをやめるとかいう普通に使われる意味ではなく、物事を明らかにすることをいう仏教用語なのですね。
若い頃はよくわからなかったことが歳をとるにつれて少しずつ明らかになっていく。
もちろん永久にわからないものも半分くらいはあるのだけど、それは置いておいても、右に行ったり左に行ったりしてちょうどいいところを見つけたり、ぼんやりしていたことが輪郭がはっきり見えてきたりする。
これはもちろん今も現在進行形で、どこまで行けるのかな?という感じです。
そんなふうに考えると諦める、という世界はけっして嫌なことじゃないんだと思えますね。
明らかになってくるから手放すものは手放せる。今普通に使われる諦めるにもつながります。
でもそれはちっとも悲しいことじゃなく、むしろ焦点があってくるという意味でより自分のエネルギーを本当にやりたいことに集中できる、ということでもある。
焦点の合わないレンズが少しずつ焦点があって行く、というイメージで歳を重ねるということを見ていくと、それも悪くないね、と思えませんか?
正法眼蔵 第六巻より(増谷文雄現代語訳)
[眼睛]天童如浄の言葉
「今朝は2月の第一日、払子(ほっす)眼睛が突出して、その明らかなること鏡のごとく、その黒きこと漆のごとくでござる。それがたちまちぱっと跳ねて、天地を一色に呑み去ってしまう。それなのにわたしの門下達は、あいも変わらず牆(かき)につきあたり、壁につきあたってござるが、これはいったいどうなるのじゃ。あれやこれやと思いめぐらしたすえは、呵呵(かか)と笑って春風にまかせようぞ、どうにも仕様がないではないか」
よい1日を💕
100日ブログ第10期ー自分のエネルギーのマスターになる62
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