ひとつの記憶を脳内の沼の中から引き出してくる行為では、

『記憶』を取り出す度に、その解釈が微妙に変わってきて

しまうことがある。そもそも、完全なる記憶を引き出して

くることができるはずもないから、朧気で曖昧で、しかも

解釈の余地が多い内容でしか記憶を引き出してこられない。

 

例えば、肌色タイツの記憶で最初に引き出してきたのは、

恥ずかしさを伴ったものだった。肌色タイツを穿くことを

自分は恥ずかしく思っていたのだと解釈して、そう書いた。

しかし、私は、その恥ずかしさを好んでいたことを徐々に

強く意識してくるようになる。恥ずかしさのそのすぐ隣に

紙一重の距離で、美味しさがある。それは表裏一体なのだ。

 

肌色タイツは気恥ずかしかった。でもだから、好きだった。

その矛盾が自分の嗜好を形づくる大きな要素になっている。

セーターに合わせて肌色タイツを穿くのが好きだったのを

思い出したのは、自分の精神理解上、重要なことの一つだ。

 

一つを思い出すと他の情報も呼び覚まされる。母の性質や

祖母の服飾趣味など、当時は意識していなかったけれども

長い年月の中で、ああ、そういうことだったのかと合点が

いくことも多く発見できてくる。祖母、母、叔母など母の

実家の関係性も、別の方面から理解できるようになるのだ。

 

 

少年時代に私が恵まれていたことの根本は、両親が家庭を

しっかり営んでくれたていたことで、生活や精神の安定が

あったこと。祖母や叔母など、外部スポンサー的な存在が

いてくれたことで、経済的な面で何も不満がなかったこと。

などなど外部要因があるのだけれども、自分自身も健康で

元気な少年でいられたことも大きいだろうと思っている。

 

今、思い浮かぶのは、川沿いの遊歩道。グラウンドの横を

犬と一緒に駆けて行く自分の姿だ。紺色のタイツを穿いて

風を切るように元気に走った。時空を超えて彼に会ったら、

これから困難に遭っても頑張れよ、と声をかけてあげたい。

 

 

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