死に支度いたせいたせと桜かな 小林一茶
益々、古い人間には住みづらい世の中になっていくものだなと感じる、今日この頃です。始め有るものは必ず終わりあり。必ず来ることが分かっているのなら、やはり、終わりの準備も、できる範囲で進めて参りたい。
で、武士の心得などについて書かれた『葉隠』という書物の中にある一文、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の後に続く文章が、急に気になり、電子書籍ストアのKindleストアで、山本常朝(やまもと・じょうちょう)『葉隠 上』を、先ほどダウンロード購入し、該当箇所を読んでみました。続きの部分には、おおよそ、次のようなことが、書かれていました。
『死を覚悟してまで、それを行うべきか否か。そういう切迫した状況に放り込まれたとき、私を含め誰だって、生き延びることを望むでしょう。しかし、生き延びた結果、腰抜けだと言われ、物笑いの種となる場合もある。腰抜けだと言われるか否かの境目は、単純ではない。死を覚悟して何かを行った結果、死に至り、犬死と呼ばれる場合もある。腰抜けと比べれば、犬死は、恥辱ではない。恥辱ではないということは、武士道において、大切です。
毎朝毎夕、改めて、死を思い、常に死に身になっているときは、武道に自由を得て、落ち度なく奉公し果(おお)せるでしょう。』
山本常朝が生きた江戸の世において、生か死かという究極の選択を迫られるような状況は、あまりなかったのではないでしょうか。「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」という一文は、どう解釈すべきか。結局、この一文は、「死を思い、死を覚悟して生きることこそが、武士としての生き様を充実させることですよ」と言っているように、僕は感じました。
神奈川県横須賀市にて
佐藤 政則