免疫という防衛本能が弱まっているのか、少し雨に打たれただけで、頭が痛くなり、休みをいただいてしまいました。無常の世において、伝統や慣習でさえ、常に、微調整が加えられている。あの世のことは、まだ行ったことがないので存じ上げないが、この世では、「一貫性は、動的平衡の中にしかない」と思いながら、休んでいました。
先日、ロシアのウラル山脈の南方にある町の近くに隕石が落ちた後、知り合いの方に、「もしも、小惑星と地球の衝突が避けられそうにない事態に至ったならば、核爆弾を使って、地球を守るべきだ」と言われ、はっとした。
核爆弾と、「原子力利用(=原子力の研究、開発及び利用)は、平和の目的に限る」とする原子力基本法2条1項に、接点などあり得ないと思っていたが、それは思い込みに過ぎなかったと、思った。
兵器と呼ぶべき道具は、戦闘員と戦闘員が交戦するときに使う道具に限定すべきで、いわゆる核兵器、生物兵器、化学兵器は、断じて、兵器(weapon、arms)の範疇に入れてはならないという、私の考えは、もちろん変わらない。
米国は、核爆弾の人体への影響を調べるために、同意を得ずに自国の国民を実験生物にする冷酷さも、併せ持つ国である。戦争を終結させるために、やむを得ず、広島と長崎へ原爆を投下した、原爆攻撃をした、というのは、欺瞞である。
本当に、日本の戦闘続行を抑止するためであったのなら、まず、「戦闘を止めなければ、新型爆弾を落とすぞ」と警告したはずだが、警告した痕跡はない。わざわざ、違う種類の核爆弾を、広島と長崎に、3日の間隔を置いただけで、投下した。しかも、北九州市小倉地区の天候が思わしくないので、急いで第二目標の長崎市に移動して、投下した。「今、実験しなければ、実験する機会は、当分の間、ない」と、言わんばかりである。
浅薄な米国を、戒め諭すことができる友人は、日本だけではないか。日米同盟が、世界秩序の安定に資するものであり続けることを、願って止まない。
神奈川県横須賀市にて
佐藤 政則