循環型社会という言葉を見聞きすることが、よくある。コンプライアンスという言葉と同じで、当たり前のことを、わざわざ表現している。
法令は、わざわざ、コンプライアンスを連呼されなくても、守るべきものとして、制定されている。歴史を見れば、人類の社会は、概ね、"循環型"であったと、思う。だから、もし、"循環型"でない社会があるなら、そちらのほうを"○○型社会"と呼んで、区分けするべきだと、思う。"循環型社会"という言葉を連呼されれば、"循環型"であることのほうが、まるで、特別なことであるかのように聞こえて、どうも釈然としない。
以前、和の心という言葉を使った。自然環境と調和して暮らし、自然環境から様々な恵みを受け取る。季節が一巡する。前年と同じように、自然環境と調和して暮らし、前年とほぼ同じだけの恵みを、自然環境から受け取る。受け取る量が、例年より多くても少なくても、恵みを受け取れたことに感謝する。皆で祭りを行い、その気持ちを表現する。それを、繰り返す。
そこには、「実質GDPを増やすことは、常に善である」という思い込みは、無い。人知を結集して、生産活動を行うが、子々孫々、自然環境から様々な恵みを受け取れるよう、願ってきた。危険な廃棄物を、とりあえず地中深くに埋めて、子や孫に受け取らせるようなことは、してこなかったはずだ。
私は、兵庫県の瀬戸内海沿いの地域に住んでいるが、今朝5時過ぎに公道上で、4、5頭の鹿に遭遇した。この辺りで、1、2頭ではなく4、5頭の鹿に遭ったのは、初めてのことである。食物が見つからないのだろう。明らかに、和が乱れている。