chick3791 日常あれこれの発信

chick3791 日常あれこれの発信

早や7月。
野菜・・ドイツ豆がよく実りました。大きくて、柔らかくて、おいしい。
果実・・桃が大きく実った。初めて沢山実った。何百個あるかな?
早速鳥がつつきに来るので、網掛けが大変。

皆様、ようこそ、いらっしゃいました。

ご一読後、何かを感じていただけると、嬉しいです。  chick3791

Amebaでブログを始めよう!

 

人間は一本の葦にすぎない。自然の中でも一番弱いものだ。だが、人間は考える葦である。全宇宙からみれば、これを絶滅するには、一陣の嵐で十分である。しかし、宇宙が人間を押しつぶしても、人間はなお、これを殺すものよりも尊い。人間は、自分が死ぬこと、宇宙が自分よりもまさっていることを知っているからだ。宇宙は、そんなことは何も知らない。

だから、私たちの尊厳のことごとくは、考えるということにあるのだ。まさに、ここから、私たちは立ち上がらねばならないのであって、空間や時間云々ではない。正しく考えるように努めよう。いかに生きるかの根底はここにある。」

上記を読んで、以下の問に答える問答がある。

1 要約(200)をせよ。

2 論理的な反論(200)をせよ。

3 12を踏まえた上で、どちらの立場に立つかを表明し、具体的な事例をあげて述べよ(300)

 

解答例 1

 「人間は考える葦であり、考える事こそが人間の尊厳である。人間は、自分が宇宙の中でどのような存在であるかを考えることができ、かつ自分たちが葦のように弱い存在である事を知っている。一方私たちより遥かに深淵で強大なる大宇宙は、そんなことを知る由もない。だから人間は尊い存在なのである。人間がいかに生きるかの根底は考える事にあるので、私たちは、物事を正しく考えるように努めるべきである。」(188字)

 

解答例 2

「筆者は「人間は正しく考える必要があり、そこに生きる根底がある。考えることが人間の尊厳といえるからだ」と主張している。しかし、人間の尊厳を「考えること」だけに絞れば、感情、五感、喜怒哀楽、愛と煩悩等々、人間特有の感性が人間の尊厳から排除されてしまう。思考の実践はプログラミングにより人工知能でも代替可能になる。したがって、人間の生きる尊厳には「考えること」だけでなく、「感性」という要素も存在する。」(182字)

 

解答例 3

私は、筆者の「人間の尊厳は考えることにあり、正しく考えることが生きる根底にある」という主張に反対だ。確かに、考える行為は人間のみが可能とするものである。しかし、「考えること」より先に、「知覚」や「感性」が存在するのではないだろうか。現代社会がデジタル化するにつれ、我々は充分に五感を機能させる機会が減ってきている。今や、グーグルマップで「旅をした気になる」人さえいる。しかし、そこからは、現地の空気、匂い、音を感じることは決してできない。実際に体験することにより、五感は最大の機能を果たす。人間はまず、「感じること」から全てが始まるのだ。感性こそが人間の尊厳と言っても過言ではない。(280字)

 


皆様が名言として認識している「人間は考える葦である」について、
長きにわたり、この文章が単独で存在していると思っていたら、そうではないのだ。
ご存知のようにPascalのPenseeから引用されている。
 
Penseeは彼の未完の語録であり、上記名言はその中の前半の一節の一部にすぎないが、英語訳は以下のようである。

Man is but a reed, the most feeble thing in nature, but he is a thinking reed.
日本語訳が如何に短くessenceを言い当てているのかが分る。
 
Penseeでのその部分の小節の日本語訳は以下のようであり、その最初の部分が「人間は考える葦である」に相当する部分である。

「 人間は一本の葦にすぎない。自然の中でも一番弱いものだ。だが、人間は考える葦である。これを押しつぶすのには、全宇宙はなにも武装する必要はない。ひと吹きの蒸気、一滴の水でも、これを殺すのに十分である。しかし、宇宙が人間を押しつぶしても、人間はなお、これを殺すものよりも尊い。人間は、自分が死ぬこと、宇宙が自分よりもまさっていることを知っているからだ。宇宙は、そんなことは何も知らない。
だから、私たちの尊厳のことごとくは、考えるということにあるのだ。まさに、ここから、私たちは立ち上がらねばならないのであって、大宇宙の空間や時間からではない。私たちには、それらを充たすことができないのだから。だから、正しく考えるように努めようではないか。いかに生きるかの根底はここにある。」
   
ここに、上記を読んで、以下の問に答える問答がある。
問1 要約せよ(200字)。
問2 論理的に反論)せよ(200字)。
問3 問1、2を踏まえた上で、どちらの立場に立つかを表明し、具体的な事例をあげて述べよ(300字)。

 

 

Einstein博士の生き抜いた時代は19世紀の後半から20世紀半ば過ぎまでの76年間です。
この時代は、日本では日清・日露戦争、大東亜共栄圏のもとに日韓併合・満州国建設、第二次世界大戦で日本敗北、西欧では第一次世界大戦、ロシア革命、スペイン内戦、アウシュビッツの大虐殺、ああ第二次世界大戦によるドイツ降伏、イスラエル建国、ハンガリー動乱等々、まさに凄まじい激動の時代でもありました。

Einstein博士はそれらの各国の駆け引き・戦争・人種差別の波に大きく影響されながらも、思考の人生を貫いたようです。

こんな洒落たことをしている輩もいます。以下の写真を近くで見、徐々に後退して眺めると、Marilyn Monroeに見えてくるそうです。彼と彼女の顔かたち・眼鼻の位置が酷似しているのではないでしょうか? 一度、tryしてみてください。

~~~~~~~~~終わりに

 われわれは、アインシュタインの業績を、どう評価すべきであろうか? アインシュタインの「一般相対性理論」は、今日の宇宙論の土台を築いた。しかし、同時に「相対性理論」はアインシュタイン自身が言うように---「重要な進歩は、いつも新しい問題を引き起こします」---多くの謎を残した。

今日の宇宙論は、もはや、観測で確かめられる範囲をはるかに超えている。どの理論も証明することは不可能なのである。われわれは、あるいは「一般相対性理論」を知らない方が---つまり、ニュートンの力学のように、「時間」は絶対で永遠であり「空間」は、まっすぐで果てしないものであるという世界観を、そのまま信じている方が、よかったのかも知れない。

一方「量子力学」は、どうだろう。たとえ、その根本原理が正しかろうが正しくなかろうが「21世紀の科学の進歩は、量子力学なしには考えられない」と言われているほど現在の科学技術に貢献している。今日までの「量子力学」の急速な進歩は、その実用性に要因があったのだろう。その点からいえば「量子力学」は「一般相対性理論」よりも、われわれの生活に接点が多い。

しかしアインシュタインは生涯、この量子力学の主張には、頭を前に振らなかった。

 アインシュタインの探究は「自然を理解したい」という科学者の欲求を満たすためのものに過ぎなかったのか。いや、科学の進歩は、科学者の欲求だけに任せられることがあってはならない。アインシュタインの業績は、いったい何だったのか。今現在、われわれは、それを単純に言い表す事はできない。しかし、いずれ、遠い将来かも知れないが、その答えは必ず出ると信じよう。

 

~~~~~~~~~終わりに

 

~~~~~~~~~~~~~~
晩年のアインシュタインについて一言だけふれておこう。プリンストンの晩年のアインシュタインに出会ったことがあるという一人の老女が、その時の印象をこう語っている---『まるで幽霊みたいだったわ』---この老女の見たアインシュタインの姿---それは、波乱に満ちた生涯を生きたアインシュタインの真実の姿だったのかも知れない。

 

1955年の春、アインシュタインの心臓は、不調をうったえた。そして、彼は入院した。
彼は病室に秘書を呼び、万年筆と眼鏡と書きかけの原稿を取ってくれと頼んだ。もちろん、死期が迫っていることを知っていた。それでも、仕事が気になり「私は計算したいんだ」と言った。そうやって計算しても、その成果を見ることはできないと彼は知っていた。彼はそれでも良かった。

 

1955年4月18日午前1時15分、アルバート・アインシュタインは、息をひきとる。享年76才。彼は、空間や時間、宇宙の構造についての認識を、永遠に変えて、そして、去っていった。

 

アインシュタインの言葉「私は、生涯、自然の中に隠れている秩序を、わずかでも、かいま見ようとしてきました。すべての科学は、世界の中に存在する調和を、信ずる必要があります。理解したいという私たちの思いは、永遠のものです。」

 

アインシュタインの墓はない。プリンストンの葬儀パーラーで行われた彼の葬儀は、わずか12人が参加しただけの簡素なものだった。彼の肉親では、長男のハンス・アルバートだけが、顔を見せた。彼の最初の妻、ミレーヴァも、二人目のエルザも、すでに世を去っていた。葬儀は、友人の弁護士オットー・ネーサンが、ゲーテの詩「シラーの鐘へのエピローグ」の一節を暗唱しただけで終わった。公の通知も出さず、花輪も音楽も控えるように、アインシュタインは、遺書にしたためたのだった。

 

出席者のうち、一人の女性だけが、カトリック教徒だったので、彼女は、一輪のカーネーションをアインシュタインに捧げた。「単純なものこそ美しい」アインシュタインは、生涯、そう信じていた。

遺体は荼毘にふされ、遺志に従って、灰は近くのデラウェア川に流された。
~~~~~~~~~~~~~~

 

 

彼は、決してドイツ人を許さなかった。
「ドイツ人が、わが同胞ユダヤ人の大量虐殺をやってからは、私は今後、ドイツ人とは一切のかかわり合いを、もつつもりはない・・・。可能な範囲で自分の良心を保った、ほんの数名については例外である。」
 

 
彼にとって、例外の数名とは、オットー・ハーン、マックス・フォン・ラウエ、マックス・プランク、それにアーノルド・ゾンマーフェルトであった。

アインシュタインは、イスラエル政府について、政治的に批判的な場合もあったが、イスラエルの大儀のために献身的であった。彼は、イスラエルのことを「us(われわれ)」、ユダヤ人のことを「My people(わが同胞)」と呼んだ。アインシュタインのユダヤ人としての同胞意識は年をとるとともに強くなっていったように思われる。彼は、真に自分の故郷となる場所を見いだしえなかったのかも知れない。しかし、彼は自分の属する種族は発見できたのである。https://ameblo.jp/amamizu7/entry-11587958808.html

 

 

アメリカに永住する許可を与え得るのは、アメリカ領事だけであった。そして、その領事は、アメリカ国外にしかいないのであるから、アメリカに永住する許可を得ようとする人は、一度アメリカの外へ行って、そこでアメリカ領事からそのような許可をもらってこなければならなかった。


 
 
そこで、アインシュタインはイギリスの植民地であるバミューダへ行き、そこの領事からアメリカへ永住する許可を得ようとした。
  しかし、アインシュタインのような人のこの島への訪問は、非常な評判をよび、島は『お祭りさわぎ』につつまれてしまった。この地のアメリカ領事は、アインシュタインのために歓迎パーティー催し、アインシュタインに、アメリカに永住する許可を与えたのであった。

バミューダ・トライアングル。ここは別名「魔の三角海域」 と呼ばれており、昔から人々に恐れられているという。 最近では特に知名度が上がり、 高等学校の一部の英語の教科書にも世界のミステリー として記載されているという。

 

 
今でもこの海域では、原因の分からない消失事件が起きていますが、事件の特徴として、次のようなものが上げられています。

1.消失した船や、飛行機の残骸が、まったく発見されない。
2.消失する前に突然、方位磁石や計器が狂う。
3.この地域で、不思議な光が出現するのを目撃したという報告がある。

 

 

さて、アインシュタインが、この重力場と電磁場の両方を考慮に入れた統一場理論を研究しつつあるという噂は、1929年の3月14日という、アインシュタインの第五十回目の誕生日が近づくにつれて、世界中にひろまった。

 

アインシュタインは、その相対性理論によって、宇宙の謎の一つを解いた人物である。そのアインシュタインが、第五十回目の誕生日を期して、この宇宙の謎を最終的に解く統一場理論を発表するであろうという噂は、ジャーナリズムにとっては、もってこいのニュースであった。

 

 

この騒ぎの中で、アインシュタインの新しい統一場理論はついにプロイセンの科学アカデミーの紀要に発表されたが、それは数学、特にテンソル解析学の公式で満たされた数ページの論文であったので、新聞記者や雑誌記者にとっては、それは全くのちんぷんかんぷんであった。

 

 

リーマン幾何学を利用したアインシュタインの一般相対性理論が、逆に、このリーマン幾何学の研究を刺激したのと全く同様に、リーマン幾何学の拡張を利用したアインシュタインの統一場理論がリーマン幾何学の拡張の研究を刺激したのは事実であった。

 

 

彼は、決して車の運転を覚えなかった。アインシュタインは、持ち前の風変わりな性格を、存分に発揮した。アメリカ市民となる式典に、靴下を履かずに出席したのもその一例であった。常識的な大学教授という役割を、彼は決して演じようとしなかった。たくみなユーモアの影には、深まり行く孤独が隠されていた。

1936年、妻エルザは短い病気の後亡くなった。エルザの死後「熊のような孤高の生活は度を増した」と、彼は友人への手紙に書いている。

 

最初の妻、ミレーバとは、二度と会うことはなく、彼女は1949年に亡くなる。次男のエドヴァルトは、精神の病を得て、スイスの病院で、1966年に亡くなった。長男のハンス・アルバートは、カリフォルニアで工学の教授になるが、父親とは滅多に会わなかった。

アインシュタインは、「統一場理論」を追い求めたために、生涯の最後の30年を無駄にしたという意見がある。しかし、私たちは、彼の恩恵を、大いに受けているのだ。彼は、理論の統一のための道を、示してくれたのだ。今も、多くの物理学者が、核の力を、重力や電磁力と、統合しようとしている。誰もが、アインシュタインの遺産を受け継いでいるのだ。

 

 

◎ 名言あれこれ_32
論争-2

 

アインシュタインの『神はサイコロをふらない』という有名な言葉には、傲慢さが感じられる。なぜ、彼にそれがわかるのか。神が袖の中に、何を隠しているかは、誰にもわからない。

 

クリスチャンのアインシュタインは、ホーキングの「神がサイコロ振る理論(量子力学を宇宙開闢に導入する理論)」に死ぬまで反対した。キリスト教的一神教信者にはホーキングの考えは受容できない。

 

ホーキング:一般相対性理論と関わる分野で理論的研究を前進させ、1963年にブラックホールの特異点定理を発表し世界的に名を知られた。

       

Stephen William Hawking (1942年1月8日 - )難病のALSを患う車椅子の天才物理学者、博士の著書「ホーキング、宇宙を語る」は世界で1000万部を超えるベストセラー。Hawkingの警告①.人工知能の完成は、人類の終焉を意味する。まずはデスクワークから、そして人工知能が体を持ったら肉体労働も奪い取ってしまうことになるでしょう。そして、人類を滅亡させるでしょう。②.地球上に存在する砂粒の数よりも宇宙に存在する星の数のほうが多いってご存知ですか? 宇宙って本当に広いんだとつくづく思う。この意味するところは、クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸に上陸して先住民にひどい仕打ちをしたように、我々地球人も宇宙人によって支配されて地球が植民地とされてしまう可能性があるということ。③.スイスにある欧州原子核研究機構(CERN)、ここは、世界中から優秀な科学者達が集まり人工的にブラックホールを作り出そうとするなど、SFのような超々最先端の研究や実験が行われている研究所です。物質に質量をもたらす「ヒッグス粒子」を発見したのもCERN、宇宙は17の素粒子から成り立っていて、最後の粒子が神の粒子Higgs Boson、不安定なために直ぐ分裂してしまうが、CERNはこれを安定化しようと研究している。しかし安定したときが最後、その時に宇宙は滅亡するという。

 

         

 宗教家にも、いろいろいる。

キリスト教徒などはこの世はロウ(秩序)で成り立っていると考えてるけど、それとは真逆に、この世はカオス(混沌)で成り立っていると考える宗教も数多く存在する。カオスの世界感なら、ホーキングの理論は何の違和感もなく受容できる。量子力学ってのは ズバリ「カオスの理論」そのものだから。

 

アインシュタインは、生涯、ボーアと論争を続けた。決して、量子力学を支持することはなかった。そして、アインシュタインは、「相対性理論」と「量子力学」を、一つにまとめる壮大な理論を打ち立てようと目指すのであった。

つまり、極小から極大まで、すべての物理現象を解き明かす理論、それは「統一場理論」と呼ばれる。アインシュタインは、「統一場理論」を求めて、孤独な長い道のりに踏み出した。

 

アインシュタインの科学技術活動の最後の期間は、ずっと、統一場理論によって占められた。また、量子論が、彼の頭から離れることもなかった。

 

彼の目的である統一場理論は、確固としたものであった。彼は多様な方法で立ち向かったが、その努力は全て徒労に終わった。

 

◎ 名言あれこれ_31
論争-1
 「光」の謎から「特殊相対性理論」へ、そして「重力」の追求から「一般相対性理論」へ ---- 自然の秩序を深く信じたからこそ、アインシュタインは、偉大な仕事を成し遂げたのであった。しかし、その確固たる信念は、次の新たな理論と、衝突することになった。

 

  1927年、第5回のソルベイ会議で、アインシュタインは「量子力学」の学者たちと同席した。「量子力学」は、物理現象を「原子」や「素粒子」など、もっとも小さなレベルで追求する学問である。ヴェルナー・ハイゼンベルク(1901-1976)やニールス・ボーア(1885-1962)に代表される量子力学の科学者たちは、ミクロの世界の物理現象は、不確かさと偶然によって支配されていることを理論立てた。宇宙という最も大きな構造に焦点を当ててきたアインシュタインは、自然界に、不確かなものがあるという「量子力学」の考え方を、ひどく嫌い、一生、妥協することはなかった。


 ニールス・ボーアとアインシュタイン


アインシュタインの回想


「量子力学は、部分的には有効でしょう。しかし、核心の原理に確率とか、偶然で、すべてが決定されるということには納得できません。もっと深い、本当の原理があるはずです。ボルンに言ったように、神はサイコロをふらないんです。」


「量子力学は大変印象的です。しかし私の内なる声は、それはまだ本物ではないと私に言っております。この理論はかなり多くの結果を残していますが、われわれを創造主の神秘にまで近づけてくるものではありません。いずれにしても、神はサイコロを振りはしないと確信しております。」


「同僚からは、異論を唱える頑固者だと、見られるようになりました。長年の間に、目も耳も機能しなくなった化石のような存在です。そう言われても、いやな気はしませんでした。私の気質を、よく表していましたから・・・」

 

晩年の方向


 “◎名言あれこれ_29”の時期とは前後するが、 アインシュタインは、当初、1年のうち5ヶ月をプリンストンで、残りの時間をベルリンで過ごすつもりであった。しかし、決してそうはいかなかった。
 1932年7月の新しい選挙で、ナチスが大勝し、ユダヤ系住民への弾圧は日に日に大きくなっていった。

 アインシュタインのもとには、暗殺を予告する脅迫状まで届いていた。アインシュタインが妻に、もう二度とこのベルリンのカプートの町を見ることはないだろうと述べたのは、その年の12月のことであった。

 

ベルリンにあったアインシュタインの論文は、義理の息子ルドルフ・カイザーの手によって、無事に救出され、フランスの外交用郵便袋で、フランス外務省に送られた。
 1932年12月10日、アインシュタイン一家は30個の荷物とともに、蒸気船オークランドでブレンメルハーフェンを出発し、再びカリフォルニアに向かった。事実これが彼らにとってドイツとの永遠の別れになったのである。


静かな大学町プリンストンに落ち着くと、すぐに日課が定まった。毎朝、歩いて「プリンストン高等研究所」に通い、午後になると、マーサー通りのこじんまりした自宅に帰ってきた。


ここで、“◎名言あれこれ_29”の時期と重なっていきます。
  
この、なんの変哲もない、ごく普通の家・・・ここが天才アインシュタインの住んでいた家です。


彼は1935年にこの家を買って1955年に亡くなるまで、20年間この家で暮らしていました。
現在は、アインシュタインが晩年に教授をつとめていた「プリンストン高等研究所」の研究者の方がこの家にふつうに住んでいるそうです。