作家と芸術家とイマドキの学者の共通の悩み | マメ風呂冷泉

マメ風呂冷泉

あまり考えずに行きます。
アメリカ生活、ピグ日記。突然の激辛論調に注意。
コメント歓迎。ただし、明らかな宣伝(例えば記事内容に全く触れていないもの)またはスパムおよび拙宅に不適切と判断したものは送り主のサイトに行くことなく、削除します。通報もします。

日本ではよく文系と理系に進路や職や人間を分ける。

それらに属する人があたかも違う世界観を持っていて、違う世界に生きているかの様に言われる。


人柄についても、文系の人は人間の心が分かり、理系の人は全て計算で判断して冷たいなどというムチャクチャな論理が漠然と受け入れられていたりする。


さらに、芸術家って言うカテゴリーの人がいる。


彼らは彼らで、またちょっと変わった人たちだよなぁって思われているんじゃないかな。

でも、どっちかというとやっぱり文系に近いと思われているのだろうか。

科学と芸術的感覚って間逆っぽいイメージがあるもんね。同意はしないけど。


でもね、最近、「作家とか芸術家とか科学者っていうのは共通の悩みを持っているんじゃないか」って思うようになった。


いわゆる、売れない作家とか売れない芸術家とかってのは、よく聞く。


作品やパフォーマンスが売れて、それ一本で生計が成り立つことが「成功」だと位置づけるならば、自分の考えに基づいて何かを作るということと、その作られたものが世間に受け入れられるということは必ずしもその作品の良し悪しや独創性によらない。


もっと、こう、時代のタイミング的なものに支配されている部分が強かったりする。

さらに、売込みの上手さも関係するんだろうと、あくまでも想像だが、思う。


その点において、ある種の学者や科学者の成功って言うのも同じようなものだ。


ある種のというのは、つまり、簡単にまとめてしまえば、自分の表現したいものの方向性が、その分野の大勢に迎合していない人たち。



************************************************

例えば、経済学者の世界。


メジャーなケインジアン経済学を押さない経済学者にとって、アメリカで大学で職を得るのは非常に難しいという。


もちろん、自由の国アメリカだから、マイナーな流派の人たちが学者として活動できる教育機関や研究機関が全く無いわけではない。

でも、難しいことは難しい。


また、米民主党を支持していない経済学者も大学に職を得るのは難しいらしい。

面接が終わって親睦も兼ねた気軽なランチの最中にうっかり民主党を支持していないことを匂わせてしまったら、途端にそれまでフレンドリーだった大学教授達の態度が硬化して、案の定採用されなくて、じゃあ、誰が採用されたかというと、自分よりも明らかに経験も学歴も低い人が採用されていたということは多々あるらしい。


だから、主流の考えは押さないが経済学者としてアカデミアにいたければ、自分の本当の主張はなるべく隠していないとつぶされるということになりかねない。

そうしながら、自分が生き残れそうな職場を探すのだろう。


または、例えば、自然系科学者の世界。


今の御時世、自然科学系をやっている科学者なら、地球温暖化、しかも、人間活動の影響の結果として地球温暖化がとんでもないところまで進んでいて、今、いくら金を積んででもいくら社会の生産性を損ねてでも、それを防止しないと遠くない未来に人類は滅んでしまうだろう!!!!!ってノリに賛同していないと、「成功」することは難しい。


論文を読んでいても、こんなしょぼいデータでそこまで大げさなことが言えるのかよ!ってくらいのデータで、「~~~によって、我々の見出した結果は、地球温暖化に重要な影響を与える因子であると考えられる」とか、大風呂敷広げてるし。


これが、正常な時代ならそういう論理の飛躍がある場合には、論文を審査するレフリーがそういうところには文句をつけるはずなのだが、いまは、雑誌社もレフリーも大概が地球温暖化で科学界の力を強めよう派だから、論理の飛躍があろうが気にしないらしい。


たぶんね、これって、「この研究は地球温暖化の原因を追究する上で非常に重要である」って書いて獲ってきた研究予算でやっている研究だから、どうしても論文にはコレを書かなければならないってことで書いている。


なぜ、そもそもそういうことを予算申請に書くかというと、この御時世、それを書かないとその分野で予算を取ることが難しいからだ。


だって、その分野そのものが、医学や物理学などの他の分野から、地球温暖化カードを使ってより多くの科学研究予算を分捕ってこようとしているし、そういう中で同じような研究をしている自分のライバルの個々の研究者はその地球温暖化カードを使っている。

だから、地球温暖化カードを使わずに予算の申請を書いたらライバルに負けるし、ましてや、地球温暖化に懐疑的なことを書くなんて自殺行為だ。


むしろ、今の地球温暖化フィーバーに水をさすような意志を見せようもんなら、多数派は、あらゆる機会を使ってそれらの人を分野から排除しようとしてくるだろう。

なぜなら、繰り返すが、そういう少数派は自分達の分野そのものを弱くする方向に働くからだ。


だから、研究者は既によっぽど力を持っているか、または、よっぽどぬきんでて実力があるのでない限り、一応流れに逆らわないような研究をするか、あえて、それに触れないで細々とやっていく道を探すしかない。

それで、ひそかに自分のやりたい方向に持っていく。またはメインじゃないテーマで自分のやりたいことをやっていく。



じゃあ、作家や芸術家はどうか?


作家や芸術家は、やっぱり、クリエイティブな方々だけあって、簡単には人に迎合しない性質の強い方が多いように見受けられる。

もちろん、人や時勢に迎合しまくっている方々もいるが、そういうあまり悩みのなさそうな方々のことはここでは置いておいて。


作家や芸術家というと、自由奔放に自分の表現したいものだけを作っているという風なイメージもあるが、果たしてそうなのだろうか。

そりゃあ、たまには、自分の作りたいものがラッキーにも万人受けして売れるという人はいるだろう。


しかし、個性的であればあるほど、また、世の中の普通の人が目を背けたいことを扱おうとすればするほど、売れにくくなるのではないか?よっぽどうまくやらないと。

だから、有名になっている人でさえ、一般に売れるための作品とは別に、実は違うペンネームを用いて裏で自分の本当に書きたいものを書くというのは良く聞く話だ。



また、これもよく言われていることではあるけれど、作品を書いたり作ったりするだけで生活していける人は少ない。

大概、何か副業を持っていて、その傍ら作品を作っていたりする。

その副業は、創作とは全く関係ないことであったり、または、分野としてはつながりがあるがちょっと違うということだったりする。


知り合いの勤めていた環境アセスの会社には、シナリオライターを目指して貧乏生活をしながらバイトをしている青年がいたという。


でも、中にはそういう器用なことができない人もいる。

生活力でも、気持ちの上でも。

自分の生き方そのものを創作にささげたいと思っている人は、他の仕事をすることも辛いし、自分の興味の中心以外のものの創作をすることも辛い。

でも、それが、流行に合わないものである限り、流行を自分で作ることができない限り、自分のやりたいことだけ出来るという状況を手にして生きていくことは難しい。


もし、その芸術家が、世の不条理や不公平に対する反発を自分の創作の原動力とし、それによって何かを訴えかけたいと思っている、また、そうすることが自分の存在意義だと認識しているしたら、かれらの作品が世の流行に合うなんて事は絶対に訪れないわけだから、事態はますます難しい。


そういう場合の対策というか、まあ、多分自然発生的な自己防衛手段としてでてくるのが、同じ問題を持つもの同士が協力して、助け合い、盛り上げあうということだろう。

たまに、それが上手く行って、そこから新しい流行のようなものが生まれ、彼らの考えを理解する人々が増えることもある。

特に、新しいタイプの芸術なんかでは、そこから新たな芸術運動のようなことが起こって、それが成功していった例もある。


でも、それにしても、一夕一朝でできることではないんだよね。



************************************************

というわけで、分野が違っても、その分野の中のある種の人たちの悩みの質って言うのは、結構どこでも似ているのじゃないかなぁなんて、最近考えているわけだ。


もちろん、悩みに対する対処法は分野によっても違うだろうし、対処に必要な自己犠牲の程度なんかも違うだろう。


たとえば、実験やフィールド調査などを含む自然科学系の場合、それなりに金がないとできないこともある。そうなると、個人でやりたいようにやるのは難しい。

そういう場合は、なんとか、協力したくない考え方に抵触しないような分野というニッチを見つけてがんばるしかないだろう。


一方、そういう大掛かりな機械類等が要らない分野では、難しさは、より精神的なものにかかってくるのかもしれない。どうやって、自分の表したいことを入れつつも敬遠されないようにするかとか、または、本当に創りたいものは隠れて細々とやっていくしかないのかとか。


それでもね、もし、どの分野にしても自分の考えが思うように表現できないしまわりにそれを理解する人々がいないというのは、とってもとってもフラストレーションのたまることだと思うのだよ。


そういう意味で、やっぱり、悩みの質が似ていると思う。

それでも、そうやって悩んでいる人たちがその状況下でもあきらめないでがんばっているのは、自分の考えの表現というものにそれだけ価値を見出しているからだと思う。


というわけで、そういう悩みを持ちつつ表現活動をしているみんな、がんばれ!