パンジーの歴史 | アメケンのブログ

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10年間パンジーの勉強を続けてきました。

 トンプソンの話はまだつづきます・・・

 

 

 しかし、私はこのように素晴らしい成果を上げることができたので、さらに努力することになりました。

 

 そしてついに、豊かな色彩、かなりの大きさ、美しいフォルムを生み出すことに成功し、ご褒美を得ることになりました。

 私が最初に描いた大きくて形の整った花は、トムソン・キングと名付けられました。

しかし今では、一流の花の最も重要な特徴の一つと考えられているパンジーの中心部分にみられる黒い斑点(ブロッチ)はそれまで見たことがありませんでした。

 私はそのようなことを考えたこともありませんでしたし、この特徴が自分自身によって見出されるとは夢にも思っていませんでした。

 

 なぜならそれは全くの偶然の仕業に他ならないからです。ある朝私が群がるエリカを見渡していた時です。そのなかに猫の顔のようなものが私を見つめているのを見つけてうれしさが込みあげてきました。

 そしてしばらく呆然とそこにたたずんでしまいました。

 私には人の目になったように思えた。(私はすぐに独り生えで生まれたミニチュアのそれを拾い上げて、住むべき場所と名前を与えました)その美しさは人知れず遠く離れた場所で見つかることなくたたずんでいたのです。

 私はその一族の最初の子供をマドラと名付けました。

 彼女の体内から新しい命が芽生え、数世代後に『ビクトリア』が生まれ、ビクトリアは彼女より美しい数多くの子供たちの親になりました。ただ、色に関しては今のところ何一つ変わったところはありませんでした。

 

パンジーは白、黄、そしてさまざまなバリエーションの青しか表現できないように思われていましたが、約4年前(1837年)、苗床で濃いブロンズ色の花を見つけました。それをすぐに育てて『フラミウム』と名付けました。この系統から生まれた艶やかで美の王である『タータン』は、ちょうど今春(1841年)開花し、同種の花の中で、これまでの最高の評価を受ける美しい花となりました。

 

 

ラゴノ・ゴドフロワの物語を通じて、1810年からベネット夫人の主導で、ロンドン近郊のウォルトンでビオラ・トリコロールL.の栽培が大規模に行われたことが分かります。

 

上記に記述されたトムソンの記録によると、同様な栽培が1813年か1814年にロンドン近郊の別の場所、すなわちガンビア卿の田舎の屋敷でも始まっていたようです。(ウォルトンはロンドンの西南、アイバーはロンドンの西にあり、どちらもロンドンからの距離はスウェーデンマイルで数マイルしか離れていなかった)

 

 アイバーで始まった栽培実験のビオラの品種は、本物のビオラ・トリコローロではなく、V.tricolor arvensis Murr.「一般的な黄色と白のハートシーズ」だったようです。

 

 トンプソンがスロウのブラウンから入手したと主張する青色のビオラはおそらく青い(というよりむしろ紫色)花を咲かせるビオラ・トリコロールの主要品種だったに違いないでしょう。

 より青い品種はロシアから導入されたと言われておりその青色がアイバーのビオラの品種を素晴らしく改良するのに役立ったと言われていますが、これは新しく導入されたV.altaica Pall.,Kerに違いありません。

これについては、S.EDWARDS著【The Botanical Register】(1815年)第1巻第54ページと表に記載および図示されており、それがロシアから来たことは知られていたといわれています。