広島紀行(1)-11「チリ男性と涙の原爆ドーム」
【チリ男性と涙の原爆ドーム】
原爆ドーム。
ついにやって来た、
という感覚。
これを実際に自分の目で見た時、自分は何を感じるんだろうか、
耐えられるのだろうか…。
随分前から漠然と、頭の隅でそんなことを考えていたような気がします。
我が子が小さかった頃暮らした大阪では、小学校の修学旅行の行き先が広島だと聞かされていて、その行程には、言わずもがな原爆ドームも入っていました。
そんな理由から、
そのような想像が生じたのかもしれません。
実際は、その後、熊本に移住したため、広島への修学旅行は無くなりましたが。
つまり、今回、私達親子は人生で初めて“これ"を目の前にしているのです。
ここにやって来て、
自分の目で実物を見て…
静かに、さめざめ涙を流す自分がいました。
自分の胸のうちにある無意識、日本人のアイデンティティが揺さぶられたのでしょう。
「原爆が落ちた当時、
広島には、
日本には、
今後50年、草木は生えないと言われていたんだよ。」
子供の頃、
戦争を体験した母からそんな話を聞かされてきました。
自分の体験は無くとも、
戦争の話は親から聞かされて育った世代なので、他人事などとは片付けられない部分があるのです。
少なくとも、
自分の親世代は、
この戦争というものに人生を大きく左右された人達であり、そういう世代に自分達は育てられた訳なのですから。
今、目の前にある光景、
それは、
時が止まったかのような戦争当時のままのドーム。
なのに、
その周りを無邪気に飛び回るカラスと、ドームを取り囲む美しい花々は、2024年の「今を生きる生命ある」存在。
カラスは、過去にここで何が起きたのか全く知らず、自然の生み出した生命そのものであり、
また美しい花々は、
過去の出来事を受けて、鎮魂の想いから丁寧に人の手で手入れされたであろうこと。
きっと、ずっと先の未来もこのように人の手で慈しみを持って植えられるであろうこと。
周りが美しく手入れされているだけに、
過去と現在、
生と死、
その対比がより際立ち、
余計に涙を誘うものがありました。
敷地内にあった石碑を読んだ後、それまで雨の中、傘をさして移動することの鬱陶しさを感じていた自分に、
『生きるでも死ぬでもない、自分は雨くらいで何で鬱陶しがっていたんだ』
と自分自身にイラつきもしました。
何故なら、
過去にここで苦しみながら亡くなっていった人達、
家族や家を失った人々の痛みを想像せずにはいられなくなったからです。
ドームを周りながら観ていると、向こうからひとりの外国人旅行者が歩いてきました。
ちょうど写真を誰かに頼みたかったので、写真撮影を頼んだついでに、幾つか英語で訊ねてみました。
この時の私は、
どうにもやるせない気持ちだったので、
外国から来た彼がこの有り様を観てどう感じるのか知りたくもあったのです。
30代と思(おぼ)しき彼は、チリ🇨🇱から来たとのこと。
この上で原爆が落とされたね、沢山の人が被害を受けたね、
等と説明を始めました。
私は日本人として甚だ悲しい気持ちでいっぱいだったので、
私は非常に悲しい…
と涙を押し殺して言いました。
初対面の外国人を前に、
マスクで泣き顔が半分隠れることに救われたような気持ちになりました。
彼は私の言葉につられて、
ええ、悲しい、と。
それから、私は、
自分達は熊本から来たのだと話すと、
彼は驚き、熊本へは行った、広大な阿蘇や素晴らしいお城(熊本城)も観た、と。
2週間の旅の行程で関西、九州、沖縄を訪れ、この先、東京に寄ってから帰国する、
日本が大好きなのだ、と。
何か物静かな佇まいから、もしかしたら彼は日本伝統の禅や瞑想をやっていて、それで日本が好きなのかもしれない、と勝手な想像をしました。
気づけば私は何度も、
この国を訪れてくれてありがとう、
と彼に伝えていました。
遠い国から遥々日本を訪れ、その旅の行程に、ここ広島を選んでくれたことに深い感謝を感じたのです。
彼が立ち去った後、
私達は暫くこのドームの周りをゆっくり周り、私は自分の心の内側で感じるものと静かに対話しました。
戦争を、恐らく昔々の言い伝えのようにしか捉えていないであろう若い世代の我が子は、それでも何かは感じているらしく、
「ここに来てよかったね」
と話しかけると、
「うん」
と、何かを噛み締めるような返答でした。
原爆ドーム。
これを観て日本人としてどう感じるのか。
それが例えネガティブな感情であったとしても、日本人なら一生に一度は訪れるべき場所です…。