彼がある病を宣言されたのは、これから桜のつぼみも膨らみ、庭の緑も目にみえて鮮やかになりだした、ある春のことだった。
見立てによると、その病は、数年前から侵食を始め、彼の肉体と頭脳を痛めていたのである。
「余命約一年です。好きなことをして過ごしなさい。」
こう言われ、素直に覚悟を決めて、立派に人生の最期を終えるほど、彼は悟ってはいなかった。
全ての仕事を放棄した。
もとより、この数年来、家族とは、ある事情があり、一人暮らしである。
仕事といっても、してもしなくても、世間に迷惑をかけるほどでもない。
また、かれの仕事が、家族を養う糧になっていたわけでもない。
いわば、川の流れにただ身を任せて、あちこち漂う泡みたいなものだった。
ただ、その泡も、流れに任せながら、岸の風景と、空の雲や日のかげりにはそれなりの興趣を覚えていた。
それを楽しむ生活に満足を覚えていたともいえる。
「いよいよ、泡の身の上も許されないのか。」
この年齢まで生きたら上等と思っていた歳には達していた。
しかし、いざ死を目の前に突きつけられると、漠然と考えていた死の世界とは、まったく異なる思考が生じる。
世界が違ってみえてくる。
「怖い」
「まだ、死にたくない」
全てが手に付かない。
今まで、あれほど、おいしかったワインが、味の濃淡さえおぼつかなくなる。
それではと、かなり辛口の焼酎を口にするが、これも彼の舌には、ただ刺激を与えるだけで、心地よさを与えない。
それでも、日々は、淡々と過ぎてゆく。
桜を見に、一人、吉野の山に出かけた。
その山には、毎年、さくらの美しい春には数度、夏や秋にも数度、必ず出かけてきた。
自分のふるさとのような山である。
しかし、この春は違った。
桜の美しさが、味わえない。
上千本の咲き誇る桜が、自分の若かったときの生に見えてしまう。
上からはる下方に眺める、わずかに花弁を残す下千本の桜の枝が、、自分のこれからの生を示唆している。
人々の、楽しげな会話や穏やかな顔つきに、嫉妬を覚えてしまう。
「俺は、この日を覚悟していたのではないのか」
「野垂れ死には、自分の望むところではなかったのか」
「西行は俺の理想とする師ではなかったのか」
自分の卑小さと未熟に、さらに嫌悪を覚えてしまう。
<続く>